政治地理研究部会 第20回研究会報告

コザ暴動プロジェクト in 大阪 「都市と暴動」

開催日 2016年12月18日(日)
会場 大阪市立大学都市研究プラザ 船場アートカフェ(辰野ひらのまちギャラリー)
〒541-0046 大阪府大阪市中央区平野町1丁目5-7 辰野平野町ビル地下1階

<後援>
琉球新報、沖縄タイムス、沖縄市、朝日新聞社

<協力>
大阪市立大学地理学教室、大阪市立大学都市研究プラザ、CR-ASSIST地域・研究アシスト事務所

<趣旨>
「コザ暴動プロジェクト」は、いわゆる「コザ暴動」を写した写真展を中心に、映画・ビデオ上映・シンポジウムなどの関連企画を展開する活動として2015年12月に沖縄市(コザ)で始まった。今回の大阪での開催は、2016年4月に明治大学で開催された「コザ暴動プロジェクトin東京」に続く、本土で2回目の企画である。

「コザ暴動」は、まだ沖縄が米軍統治下にあった1970年12月20日未明、嘉手納基地前のコザ市で発生した。そのきっかけは米兵が起こした交通事故であった。当時、米兵による凶悪事件や性暴力は頻発しており、容疑者は罪に問われないことすらあった。こうした不条理に対する住民の怒りはうっ積しており、この夜ついに暴動という形で爆発した。群衆は事故現場周辺に駐車されていたMPや米人の車両を次々と横転させ、それに放火した。数千人の群衆は路上を二手に分かれ、放火・投石しながら、米軍および琉球警察と対峙した。

「コザ暴動プロジェクト」はこうした民衆の行動をあえて「暴動」と呼ぶ。それは怒れる民衆を「暴徒」とみなす危うさをはらんでいるが、異民族支配に忍従してきた沖縄の人々が「暴動」によって表現せざるを得なかった怒りの意味を、今の沖縄と日本で改めて問い直す必要がなかろうか。本企画の写真展とギャラリートークは、コザ暴動の「現場写真」の迫力とそれを撮影した写真家の肉声を通して、怒れる民衆の姿を大阪で再現する。

しかし、こうした「暴動」は沖縄でのみ起こったわけではない。本企画が開催される大阪では西成区の釜ヶ崎において日雇い労働者によって戦後24回もの「暴動」が発生している。戦前に目をやれば、首都東京でも1905年に日露戦争後の講和条約に反対する集会が大規模な「暴動」へと展開した「日比谷焼打ち事件」がある。本企画は「都市と暴動」をテーマとするシンポジウムにおいて、これら三都市で発生した「暴動」の歴史・地理的背景、展開過程、参加者属性、社会的意義を比較検討しつつ、なぜ都市は「暴動」を生み出し、なぜそれは今も語り継がれるべき出来事たりうるのかを考える。

なお、シンポジウムとギャラリートークを部会研究会とし、関連するイベントとしてコザ暴動写真展(12月17日~19日)、釜ヶ崎フィールドワーク(12月18日)を開催・実施した。


<第1部>
シンポジウム「都市と暴動―都市はいかに暴動を生み出したか」
IMGP0718

<講演>
転換点としての90年西成(釜ヶ崎)暴動
<報告者>
山田 實(NPO釜ヶ崎支援機構)

釜ヶ崎の歴史は、明治期の木賃宿街の形成から始まる。戦後は焼け野原になったが、バラック街として復興し、その過程で60年代、61年に暴動が起こる。戦後は復興過程の中で特に60年を前後して、浮浪者問題に対処するために、大阪市が生活・就労相談をして、地方の炭鉱に労働者として送り込み、問題を処理していた。そういう人々が炭鉱閉鎖で大阪に帰還し、釜ヶ崎の労働者意識を変えていった。仕事が増えていく中で、交通事故被害者の処理をめぐって、「動物扱いするな」と抗議した行動が一大暴動に発展した。

この後に70年大阪万博が閣議決定された。一過性のインフラ整備に必要な使い捨ての日雇労働力が2万3,000~4,000人と試算された。その労働者を溜める場所として、釜ヶ崎の整備が始まる。バラック街を全部壊し、区画整理し、木賃宿の経営者には優遇・助成措置を与え、著しく狭小な客室からなるコンクリート宿舎を建てさせた。70年初頭には6~7割は男で占められるようになる。大阪府の労働部などは山陰や九州に労働出張所を設け、国策事業の動員として男ばかりが寄せ集められ、巨大な日雇労働のプール・基地として完成される。社会的に、ここに集まる連中は犯罪人だから、一般市民は近寄よるなという構造まで出来上がる。一般市民社会と孤立しているので、この地域で人権問題を訴えても全部潰される。万博工事が終わった後も、職安法で禁止されている闇手配、闇求人がまかり通っていた。

これを近代化し、効率良く労働者を動員するために大きな労働センターを国が建てた。それを管理するのが大阪府の労働行政で、大阪市は労働者向けの病院を作り、市営住宅を付設し、70年以降の統治形態が整っていく。文句を言う者には警察が制裁するという形で、大阪府警が強化されていく。それくらい労働者の人権が無視され、労務の現場へ動員されるので、不平不満が募っていく。しかも国が、職安法違反の仕組みを通じてやるので、堪ったものではない。雇用調整の安全弁として日雇労働が強いられるのに、労働界、一般市民、行政から無視され、搾取される使い捨ての日雇労働者として、一過性のものとして現場に送り出される。文句を言えばヤクザに葬られる構造の中にいるので、怒りを持っていきようがない。職安も基準局も同じ対応で、警察は民事として介入しない。法が法として釜ヶ崎には適用されない。そういう中で私たちはどうやってそこで生きていくか、身を守っていくかに苦悶し、最終的な発露としての暴動になった。だから、何回も起こっている。90年は西成署の賄賂事件が発覚して起こった。根底には、人権無視がふせ置かれていた。そういうところで暴動はいつ起こってもおかしくない。

90年の暴動も、私たちが最初から西成署に対し抗議したのではない。沖縄の人が私の組合関係者に抗議に来たところ、連れている犬が組合員か警察官に噛みついた。そのことで関係者が西成署まで行ったが、周りの人々が当日の新聞で西成署の賄賂事件を知り、その抗議行動に変わった。そのうち放火行為があり、騒動が大きくなった。私の組合としても成り行き任せにするわけにいかず、労働者だけが犠牲を強いられないように、抗議行動はまっとうな形でやろうと決め、いろいろと後ろで支え、けが人は救護班をつくって面倒を見る形で進めた。その翌日、とにかく抗議に出るということになり、前列に出て私は逮捕されたが、非常にまともな抗議行動として展開された。元々が人権無視で人間扱いしない構造があるので、何らかのきっかけで、暴動が起こりかねない状況があった。今も何か理不尽なことがあれば、起こる可能性はある。

これら暴動の本質的部分として、60年代、70年代、80年代、そして現在も暴力支配をどう一掃していくかが、私たちの第一の課題だった。国が関与しない、法律が法として機能しない、ヤクザが牛耳るという状況が続いてきた。生活や労働の過程も暴力団が後ろで支配する。手配師・人夫出しが力を握っている。その上にゼネコンが都合良く安手の労働を搾取する。市民社会はそれを知らない。これら覆い隠された中で、「不平を言うな」と警察が抑えるので、堪ったものではない。こうした暴力支配を一掃するために私たちは根本的な運動を展開してきた。

<講演>
戦前東京の暴動と労働者文化
<報告者>
藤野裕子(東京女子大)

今日の発表の対象となる1905年から1918年は、日比谷焼打事件から米騒動までになるが、東京で起きたのは9回とされている。これ以外の大都市でも暴動が起きた都市暴動の時代であった。なお、人々が暴力を振るった意味、社会の規範を乗り越えた点を示すために「暴動」という言葉を使う。見下すためではなく、行為者の視点に立って読み替えるためである。

次に、この時期の暴動を「大正デモクラシー」の民主運動と重ねることは避けたい。当事者はそういう意識で動いていたとは限らない。また、社会構造論として、日露戦後の不況と貧困化の中で、その不満が爆発したという理解があるが、客観的な経済状況だけでは、その時代を生きた人々の思想と行動を描くことができない。

20世紀の暴動は19世紀の一揆などと比較すると、暴力をふるう論理が明確ではない。意識せずに体が動くとか、目に見えない、言葉にならないエネルギーを考えないといけない。どれも屋外での政治集会から発生している。日比谷公園という近代的な都市の装置、集合場所で人々が政治集会を開くと、群集状態が形成されて、警官との衝突に留まらない暴動になる。

日比谷焼打事件では、公園の周辺で交番の焼き打ちが起こと、千代田区を越えて東京中に広がって、交番を焼き続けていく。コザの通りや釜ヶ崎と違い、広がるのが大きな特徴である。襲撃対象は、政治集会の対象とは必ずしも一致しない。交番を焼き続け、路面電車も焼く。警官がサーベルを抜いて斬ると、暴力は激化した。

しかし一定の論理もある。民家への襲撃が少ない。日比谷焼打事件では、路面電車の線路の真ん中に、交番を破壊した木材や機材を持ち出して焼いている。類焼を避けるためである。交渉せずに、同意が形成される形で、配慮はされていた。ただし、本当に理性的ならば法を乗り越えようとしない。暴動とは、理性とは違うところで体が動き、普段とは違うことができてしまう。それが重要である。

集団の規模は、暴動の最初から最後まで数百人から1,000人で変わらず、途中から入る人が多い。集団内の人員を変えながら暴力がリレーされて、東京全体に広がっていく。そういう即時的な結集なので、1日・2日で終わるケースが多い。ただ、参加者は目的もわからず加わっていく。それは、暴力を即座に受け取っていく共通の文化があったからではないか。

暴動の逮捕者のほとんどは30歳までの若年男性である。これは13年間変わらない。この年齢層は東京では単身者が多い。職人層・職工・日雇いなどが約6割を占める。この労働者層と年齢の人たちが共有している日常的な感情や振る舞いがある。 職人・職工・日雇いの労資関係は、親分・子分、親方・子方関係の紐帯を軸としている。この子分・子方の人たちやその外にある日雇い層の人たちに、共通した生活があった。日雇い層は、必要に応じて調達される。労働力を即座に動員し、しかし最低限の経費で雇っていくことが可能な形式のもとに置かれている。

こうした形式は、明治国家の近代化政策を通して整備された。土木工事の多くは公共事業で、下層労働のネットワークや動員の在り方は、国策と絡んで近代に発達していった。近代化は、こうした労働力の使い方によって成立していた。日雇い人夫は、人夫部屋にしばられ、寄せ場に依存する生活を送っていたが、そうした条件下の生活様式に暴力を引き継ぐ要素があると考えられる。この状態では日々の生活が不安定で、貯金はできず、教育を受けて社会上昇を夢見ることが難しい。この中で違う価値観をつくって生きていたのであろう。1つの価値観は腕っ節の強さで、労働者たちの中では男らしい、価値があるものとされた。金があればその日に使うという生活スタイルも価値があるとされた。もう1つは義侠心で、みんな金がない中で金を貸せる人は、男伊達といわれた。金、学歴、地位がなくとも、矜持が保てる価値観の中で人々は生活していた。

ただし、それで人々は完結して生きていけたわけではない。刺青は男らしさの一つの証であるが、刺青を入れると一般社会から蔑視される。都市の中で上層階級と接し、日々蔑視されながら、自分たちの価値観で生きているが、疎外感は消えず、うっ積する。そこに政治集会が開かれて群集状態になったときに、感情が飛び出す。1回起こった暴力から、交番を焼いていたら、日ごろからの感情がばっと出て、東京中に広がっていく。暴動の根源には、こうして共有された生活、文化、感情、振る舞いがあったのだろう。

そう考えると、職人・職工・日雇労働者、かなり広範な人たちに共有されていた文化の在り方が変わるから、暴動の在り方も変わると考えられる。1920年代以降、工場労働者の待遇は改善され、企業社会になっていく。そういう形で労働者の間で共有されていた広大な労働や生活の文化が分断されていく。よって、1度暴力が起こっても、それを引き継ぐ人がいなくなり、日比谷焼打事件のような暴動は釜ヶ崎のような暴動へと変わっていったのだろう。

<講演>
基地の街コザと暴動を語る論理
<報告者>
山﨑孝史(大阪市立大)

暴動は1970年12月20日の午前1時ごろから始まる。忘年会のシーズンで、土曜日の深夜から日曜日の朝まで続く。最初に胡屋十字路の近くで米人車両が沖縄の人に衝突する。衝突された人はそのまま帰宅した。当時では珍しくない事故だった。事故現場に野次馬が集まると、午前2時10分に現場近くで米人車両と沖縄人車両が衝突する。そこから群集が無秩序化し、米軍の車両・施設への放火・投石が4時間以上続く。

米軍資料によると、車両破壊は82台。ほとんどが米軍関係車両。負傷者は88名。大半が米軍人・軍属であった。これは投石などにもよるが、暴行がなかったわけではない。建造物損壊はゲート内の米人学校、米軍の施設などで、基地の外では派出所が破壊された。

暴動の背景として、長年の米軍の圧政がある。近因は、些細な交通事故だが、遠因は9月の糸満での女性轢殺事件とされる。1970年にはその他にも米兵による不条理な事件が続いていた。暴動前日の12月19日に米軍の毒ガスの撤去を要求する集会が美里村で開かれ、そこに参加していた組合員や活動家が、その夜の暴動にも参加して一定の役割を果たしたと考えられる。

コザでは支配層の米軍と被支配層の沖縄の人たちが非対称な関係の中に置かれていた。基地のゲートを通して、雇用関係やサービスの提供・享受を通して、この2つの集団は日常的に複雑に交錯する。コザは社会的、空間的に異質なものが、分断され、接触する場所であった。非対称な力関係を持つ社会集団間には日常的に緊張関係があり、激しい感情や暴力が発現しやすい。米兵の女性に対する暴力は殺人、強姦多々ある。米兵のタクシー運転手に対する暴行も多い。反米運動も盛んで、黒人と白人との対立も先鋭化していた。

コザ暴動についての文献の多くは沖縄人の抵抗を賛美している。学術的研究は少ない。事実関係を示す資料として米軍の公文書が使えるが、古堅宗光さん主宰の「コザ暴動を記録する会」が多くの関係者に聞き取りをした。私はこの書き起こし記録を分析した。

米軍資料によると12月20日の逮捕者21人全員が男性で女性はいない。平均年齢26歳で20代が一番多い。ほとんどコザとその周辺の住民である。職種は多様で大衆的な暴動だと分かる。米軍に経済的に依存した人も確認されるので、利害関係があっても暴動に参加しないわけでもなかった。「記録する会」での証言者のほとんども当時コザ市民である。当時の年齢も逮捕者と近い20代、一人を除き男性、職業も多様である。

証言者の語りは多様な内容を含むが、中心的な表現として「秩序ある暴動」という言い方が出てくる。これは2つの表現で補強される。1つは「おとなしいウンナーンチュ」である。この自己像は、もう1つの表現「暴力的な米軍」という他者像と対比される。おとなしい自分たちが米軍の暴力下で怒らざるを得なかったとの解釈は、暴動が秩序の下で行なわれたことを補強する基礎的図式となる。

この秩序を示す典型的表現が2つある。1つは、建物などではなく「黄ナンバー車を破壊した」という言い方。もう1つは「米兵は傷つけていない」という言い方である。この2つは相互に補強している。米兵を傷つけずにその車を破壊したことは、平和的なウチナーンチュの行為として正当化できる。こうした理性的弁別が可能だった理由について、「日常的に区別できる、米軍に対しては怒っても、米兵に対して怒るわけではない」という言い方がされる。つまり、米軍と米兵、車と人を弁別することによって「秩序ある暴動」が成立したとする論理構造がある。

攻撃対象の弁別は誰かが教導したのではなく、自然に共有されていく。黄ナンバーは沖縄では米軍を象徴する。日常的な抑圧の存在を何で弁別するかが、暴動の中で即座に共有されていった。店舗の延焼を防ぐために車を道路の中央に移動させたことを含め、コザ暴動にも秩序の側面があった。

参加者は黄ナンバーを見て破壊するので、ないところには進まない。センター通りには自警団的なグループがいて、群衆を阻止したとされる。米兵の車も路地の中に隠したので、センター通りで車は燃えていない。蜂起しなかった住民や場所が存在したことは強調したい。その理由は、センター通りでは、米軍と経済的利害関係があり、住民がそれを守ろうとしたからである。コザの社会は一枚岩ではない。市民が米軍に対する怒りを共有できる素地はあるが、その現れ方は異なる。暴動に参加する人と、自分の生活のために米軍の利害を守る人がいた。これは沖縄を考えるときの重要な要素である。

コザ暴動の8カ月後に「第二コザ事件」が起こった。センター通りの性格はこの事件からより深く理解できる。戦後の米軍は部隊としては白人と黒人一緒だが、基地の外では別々になり、人種対立、特に黒人による白人への暴行を招いた。その結果、照屋から白人が離れ、胡屋十字路側にできた特飲街が白人街になっていく。しかし、60年代から米軍が、基地外での人種分離を問題視する。これが公民権運動とも絡んで、2つのことが起こる。1つは白人街での黒人を冷遇する差別的営業への制裁である。もう1つは黒人解放運動である。照屋を政治的拠点とする黒人たちは、白人街における黒人差別を糾弾した。この2つが、人種対立を照屋から白人街に拡散させたのである。

その結果、8月17日に白人街で「第二コザ事件」が勃発する。この日ゲート通りに集まった黒人集団約50名が人種差別撤廃のデモをする。そのままセンター通りに入って白人向けの店舗を荒らした。それに対して、店舗関係者・住民たち約100人が黒人集団と対峙して、コザ署に投石した。つまり、コザ暴動では蜂起しなかったセンター通りは、その8カ月後、黒人を追い出そうとした。発生の仕組みは違うが、コザは二つの暴力的事件を通して、米兵・米軍に対する反発は示した。

なお、この抵抗が拡大するメカニズムは今日の沖縄の社会運動と投票行動を理解する上でも示唆に富む。

<まとめ>
第1部では、三つの都市暴動の構造と特徴が詳述された。特に、相違点と共に共通点があぶり出され、暴動には偶発性や群集の理性的行動といった普遍的側面があることが確認された。また質疑応答では、1920年代以降の暴動減少期でも依然として疎外される労働者とそのうっ積の行方、「第二コザ事件」の現在での受け取られ方、三つの都市暴動のその後の政治社会的過程への影響について議論がなされた。


<第2部>
「コザ暴動」ギャラリートーク

<パネラー>
古堅宗光(元NPOコザまち社中幹事)、比嘉豊光(写真家、雑誌編集者)、松村久美(写真家)、小橋川共男(写真家)、恩河 尚(沖縄国際大学非常勤、コメンテーター)、今 郁義(コザ暴動プロジェクト実行委員会、進行役)
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今郁義氏の司会のもと、一巡目に、まず当時の現場を知る登壇者が12月20日にどのように行動したかを述懐した。古堅宗光氏は当日現場を見た衝撃とそこでの群集の行動を描写し、比嘉豊光氏は圧政に抵抗する現場の写真を伝える意味を語り、松村久美氏は現場の光景に魅了されつつどう写真家として行動したかを述べた。当時東京在住の小橋川共男氏は、沖縄人2世として復帰後に沖縄の写真を撮るにいたった経緯を説明し、沖縄市史編集に携わる恩河尚氏は米国で発見したコザ暴動関係資料から明らかになったいくつかの事実を紹介した。

二巡目は、古堅氏が、「記録する会」の証言から見えるコザ暴動の特徴をコザという多民族都市の「精神」に結びつけ、比嘉氏はコザ暴動がその後の沖縄闘争を勇気づけた事実、そして現場写真と闘争との往還的関係の重要性を訴えた。松村氏はかつての黒人街照屋の変容の中に、旧特飲街再生の過程が見出されるとした。小橋川氏も事態が緊迫する高江で抵抗する人々の写真を示し、沖縄の現状を写真で発信することの緊要性を強調した。最後に恩河氏は、歴史家としての観点からコザ暴動の背景と意義を説明しつつも、いまだ解明されざる課題が山積していると括った。

最後に出席者からいくつかのコメントが寄せられた。最初の発言者は、展示された写真が自律的にとられていることがわかり生き生きとしていると感じると同時に、語りで思いが先に走ると事実が上塗りされてしまわないかとの懸念を示した。二番目の発言者は、フリーカメラマンとして現場で活動に圧力がかからないのかと質問した。三番目の発言者は原爆や空襲の被災地を訪れる人々の反応として「今はいい時代になった」という感想が若い人に多いことを残念に思い、この沖縄の写真展と暴動は今に続いている話だと再認識したと述べた。最後の発言者は、暴動は権力側から見れば非合法かもしれないが、民衆にとっては非合法でないかもしれず、本当の民主主義は法律では決められないので、そういうものを発掘し、意義を見出していく必要があると指摘した。


<企画全体の所見>

12月19日だけの参加者は記録上75名だが、17日と18日の写真展入場者は43名、18日の釜ヶ崎フィールドワークの参加者は45名で、述べ参加者数は160名を上回る盛況であった。コザ暴動のみならず、釜ヶ崎への関心も高く、研究者を超えた(大阪府外からの)聴衆が集まった。マスコミの取材も受け、一般に開かれた企画としては大成功であった。
(研究会参加者:75名、記録:山﨑孝史)