政治地理研究部会 第15回研究会報告

所有と立ち退き

開催日 2015年5月31日(日)14時~17時
会場 同志社大学今出川校地 今出川キャンパス 良心館 419教室
共催 同志社大学グローバル地域文化学部 二村太郎研究室

<趣旨>
世界各地で都市の再編が進むなか、土地所有と立ち退きをめぐる様々な対立が発生している。この背景には弱者軽視だけでなく、所有のあり方に関する法制度上の問題を抱えることも少なくない。本研究会ではカナダと日本の気鋭の研究者をお迎えし、カンボジアおよび日本の事例から立ち退きが含有する暴力性についてとらえなおし、政治地理学的研究の理論的展望や今後の課題について参加者とともに議論する。

<研究発表1>
Property is Violence: An Anarchist Critique of Evictions in Cambodia
発表者:サイモン・スプリンガー(カナダ・ビクトリア大学地理学科)

資本主義のはじまりは、征服、略奪、奴隷化、流血などによって特徴づけられるような、おぞましい出来事であった。マルクスは著書『資本論』において、「(資本主義の)牧歌的な進行過程は原始的蓄積の最骨頂である」と皮肉をこめて書いたが、これらをめぐる様々な悪意はバクーニン、クロポトキン、ルクリュなど多くの「伝統的」なアナーキストによって強く認識されていた。マルクスは原始的蓄積とは平穏以外何物でもないと考えてきたが、近年ではルクセンブルグ、アーレント、そして地理学者のハーヴェイ、グラスマン、ハートなどによって、原始的蓄積の有害な過程は現在進行する資本主義的生産様式の一部として認識されるべきだと論じられるようになった。

現代のカンボジアでは、土地投機が著しい規模と速度で進行している。疑わしき土地所有権入手、土地交換取引、そして特に強制的な立ち退きが、同国の無秩序なネオリベラル化およびその過程を特徴づける暴力を象徴している。自給的農業、物々交換経済、半遊牧的な生活形式、広範囲に利用可能な土地、そして宗教と文化に基づく信仰などが主流であったカンボジアにとって、資本主義が本格的に導入される前に土地への「権利」概念が主張されることは根拠に乏しい議論でしかないものであった。

冷戦終了後、外国資本にとってより魅力的な国となることを目指して、カンボジア政府は1989年に土地保有制度の変革を行ったが、その当時から1990年代にかけて、国有地の公的な利用はほとんど問題になることがなかった。その後、2001年に大幅な土地制度改革が導入され、土地をめぐる対立が各地で発生した。この年の法制化により、野心的な政治家や軍関係者らは耕作可能な土地を広範囲に独占するようになった。それまで耕作や牧畜のため土地を利用していた人々の使用実態は完全に無視され、書面による法的な所有権が優先されるようになり、多くの者が居住地や耕地から追い出されるようになった。

ここで踏まえておくべきなのは、プルードンが指摘するpropertyとpossessionの違いである。前者はローマ法の「主権者の権利」概念を基としており、共有されることを前提として所有を理解する。他方で、後者は実際の使用を前提としたもので、利己的な搾取の対象にはならない。アナーキズムに沿えば、実際の土地利用とはいわゆる「原始的」社会の特徴であり、価値を伴うproperty(不動産化)はコモンズの泥棒であると考えられた。独立後のカンボジアにおいて土地は国家が売却したものであり、それらを購入した投資家は農牧業を営み土地を利用していた人々から警察や軍を使って土地を収奪(dispossess)することで、自らの所有(possess)を正当化させていったのである。

クメール王朝時代のカンボジアは、伝統的に土地を耕していた者が所有権を持つと理解されてきた。しかし、1863年にカンボジアを植民化したフランスは、土地所有を規定する様々な法律を制定していった。1953年にフランスの植民地支配は終焉し、独立後は長期の内戦を経て1993年にようやく民主的国家が誕生したが、フランスの統治時代に埋め込まれた土地をめぐる法制度が、カンボジアの近代化とともに大きな影響力を持つようになった。

カンボジアでは法律により暴力的な立ち退きが禁じられていたものの、資本の論理に沿えばこれは常に合法的処置とみられていた。同様に、書面の所有権を入手するためには権力や裁判所との接点が必要であり、それは必然的に汚職を伴うものであった。そのため、カンボジアが法制度を強化する上での最大の関心事は、カンボジア社会や貧しい人々の生活をより良いものにすることではなく、ブロムリーが指摘する土地所有権の「格子化」ともいうべき、所有をめぐる暴力を正当化するという機能の強制そのものであった。

カンボジアでもっとも精力的に活動する人権NGOのLICADHOによると、2003年以降25万人以上もの人々が土地収奪と強制立ち退きを被っているという。また、アムネスティー・インターナショナルのレポートによると、2008年だけでもカンボジア全土で15万人もの人が強制的な移転を強いられる危険にあった。人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによると、2010年の前半で1万7000人以上もの人々が13の州内で被害に遭っている。農牧業を営み生活する住民が主張する土地は所有の根拠として認められず、公的機関によって発行された文書が所有権として認められる現状は、ハーヴェイのいう「収奪による蓄積」を「テクスト化による蓄積」と言い換えることもできるであろう。

発表者がこれまで実施してきた現地調査では、数々の住民が語る土地収奪の実態が明らかになっている。警察の腐敗はクメール・ルージュの圧政と比較しても酷いものであり、国家による不可視な政策の数々が暴力の源となって表れている。つまり、所有をめぐる法が暴力を増長させている。投機対象となったカンボジアの土地は少数の投資家によって支配されるようになり、彼らの土地所有が多くの人々の生活を奪うようになったのである。

近年はカンボジア政府も事態を重く見て、立ち退きの強要の一部を違法と認定するようになった。しかし、法に基づく権威的な判断は裁判所の力に委ねられており、必ずしも合法性が正義をもたらすとは言い切れない。農耕目的の利用を基盤とした経緯から土地の所有権を認めてきたカンボジアの慣習は、法的過程を前提として土地所有を認める文化と大いに矛盾する。現行法に対する前提と批評が、「所有」する土地に「不法占拠」するカンボジアの貧しき人々を支えることを可能にするのであり、原始的蓄積を制裁する過程を通じて、我々は土地所有・暴力・法の親密な関係性を暴くことができるのである。


<研究報告2>
戦後都市における河川敷居住とその立ち退き問題
発表者:本岡拓哉(同志社大学)

現代日本の都市では、河川敷の利用をめぐる「選別」が政治的および社会的に働いている。これはジェントリフィケーションやコモンズの管理に内在する排除性が表出したものといえる。日本の過去には河川敷が都市の居住空間の一つとして認識され、そこでは様々な「空間の政治」が展開していた。戦後日本の経済発展とともに都市の河川敷居住は次第に消滅していったが、その実態や経過については不明な点が多い。そのため、本研究では戦後都市の居住の場となった、河川敷という空間の変容過程をめぐる様々な社会的状況や政策および政治的意図について検討する。具体的には、1)なぜ/どのように戦後の都市で河川敷は居住(生活)の場所・空間となったのか、そして2)なぜ/どのように河川敷の居住地は消滅(立ち退き/自主移転/居住補償)したのかを明らかにする。ここでは、静岡市安倍川地区、広島市基町地区、熊本市白川地区を事例に論じていく。

1. なぜ/どのように戦後の都市で河川敷は居住(生活)の場所・空間となったのか

戦後の日本では都市に引揚者を含む過剰な流入人口が発生し、戦災による住宅不足と相まって深刻な住宅難が生じていた。そのため、住宅を求める人々は、放置され権利関係が曖昧な河川敷にスクウォッティング(「不法占拠」)を始め、バラック(不良住宅)を自分たちで建てていった。河川敷は都市中心部への至便性が高く、戦時体制以降の河川整備が遅れたこともあり、十分な資財を持たない流入者たちにとって格好の居住地となった。ここでは主に下層労働者が河川敷に住みつくようになり、彼らは廃品回収業(バタヤ)や養豚業を営んでいた。河川敷の「不法占拠」が始まった時期は一様ではないとはいえ、1950年前後には各地で河川敷居住の形成がみられるようになった。他の「不法占拠」地区の立ち退き者が河川敷に流入することによって、河川敷居住は次第に拡大し、長いものでは1980年代中ごろまで存続した。

2. なぜ/どのように河川敷の居住地は消滅したのか

戦後の日本で河川敷空間が管理の対象となったのは1960年代に入ってからである。1960年に「治水事業十箇年計画」が実施され、河川整備予算が拡大するとともに、1964年の河川法改正をきっかけに、河川敷利用に関する法律や条例が次々と制定されるようになった。この結果、河川敷の整備・管理が公的に強化されるとともに、私的な「所有」が排除され、防災公園や遊歩道といった「公的」な機能のみが許容されるようになった。また、国(建設省)・県・市が連携することによって、「不法占拠」対策に取り組んでいくようになった。

行政は河川敷居住者に対し、彼らが河川法に違反する「不法占用・占拠」者であるとして、立ち退き(自主移転)を促進させた。しかし、居住者の多くは立ち退き先の住宅や仕事の問題から、自主移転に抵抗する者も多く、居住者組織による反対運動も展開した。そのため、自治体によっては住宅地区改良事業により公営住宅団地を提供することで、穏便な解決を図っていった。

ここで注目すべき点は、河川敷から居住者を移転させるために行政がとった戦略である。行政はメディアを通じて、河川敷で「不法」に住まう居住者を、空間の防災や公共性を阻害する「スケープゴート」として位置づけ、住民の支持を得るよう画策した。また、居住者が主張するオルタナティブな空間利用(住み続ける権利)や代替的措置を否定するとともに、公営住宅を提供するという点で行政上最大規模の手当てを行っていることを提示した。これは、いわばブルドーザーや警官隊による「ハードな立ち退き」(強制撤去)というよりも「ソフトな立ち退き」と理解されよう。結果的に、事例地区では河川敷居住者の全てが公営住宅をはじめとした各地へ転居するに至った。

以上をまとめると、戦後日本の都市における河川敷居住は、単に生活や労働の場として機能していただけでなく、行政と住民との間で「空間の政治」が展開した場ともいえる。近年の河川敷利用に着目すると、河川敷空間におよぶ力は公権力(公共性)だけではなく、民間企業(ゴルフ場、砂利採取、建材置き場)の動向にも着目が必要である。さらに、「立ち退き」はその後(現代)にも影響している。すなわち、生活や労働の場としての河川敷居住をめぐる「記録・記憶」はほとんど残っていない(忘却)か、矮小化/歪められたものとして残存する。たとえ「不法」な所有であったとしても、「立ち退き」が決して過去のものではなく、人々が空間に築いてきた社会史の一部であることにも目を向けていく必要があるだろう。


<コメント>
原口 剛(神戸大学)

今回の発表は内戦終結後のカンボジアおよび戦後日本の都市を事例に論じられたものであるが、我々がそれらを「遠くでおきている、過去のもの」と考えてしまうのは大きな誤りである。討論者は自ら2000年から大阪にて野宿者の支援活動に関わってきたが、ここではいくたびもの排除行為や襲撃事件が発生したのを目の当たりにしてきた。また、近年では東京都渋谷区の宮下公園をめぐって、行政が公園敷地から野宿生活者を排除しようとする一連の立ち退き活動に対して大きな批判が寄せられてきた。ここでは野宿生活者とコミュニティがどのように一体として共存していくかが大きな課題となっている。2007年に大阪で大規模な立ち退き活動が行われた後、翌2008年の洞爺湖サミットではグローバル・ジャスティス運動が立ち退き反対運動と連携して大きな議論につながった。その流れで、近年はアナーキズム人類学という研究分野にも注目が集まっている。

今回の発表のキーワードとなるのが「暴力」と「法」であるが、野宿者支援活動の文脈では、いかにしてスクウォッティング(「不法占拠」)を正当化するかという点にかかわる。「不法占拠」への立ち退きは、その手続きに関して裁判により違法性が認定されることはあっても、「占拠」自体に対する正当性は認められない。国連人権委員会の規定においてでさえ、「正当な」手続きによる強制立ち退きは容認されてしまう。野宿を肯定する議論に沿って考える際には、資本主義が持つ暴力性を問題としていく必要があるのではないか。

スプリンガー氏が論じたように、資本主義の持つ暴力性は資本の原始的な蓄積においてのみならず、収奪による蓄積へと展開していく。これらはジェントリフィケーションの例をあげるまでもなく、現代世界の様々な場で同時に見られる問題である。収奪を所与のものととらえないためにも、占拠者たちの生活性を明らかにすること、そしてその変化を追っていくことが、地理学者には求められるのではないか。さらにいえば、今なお人々の心に内在する差別や人種主義の蔓延が、強制立ち退きを肯定的にとらえる視点に組み込まれていくことへと連鎖していく。資本主義の持つ暴力性が不可視的な過程で様々な形で展開している実態を、これからも批判的に検証していくようにしたい。


<司会所見>
第15回研究会はスプリンガー氏の来日予定に合わせて急遽企画したものであるが、「所有と立ち退き」という共通テーマを設けることで、問題の根源や今後の課題について大いに議論するきっかけとなった。ブリティッシュコロンビア大学で博士号を取得後、シンガポール国立大学・オタゴ大学(ニュージーランド)を経て現職に就くスプリンガー氏は、30代後半の若さで精力的に研究を発表しており、英語圏地理学において暴力の地理学研究やカンボジア研究をリードする存在となっている。

発表題目にアナーキズムが含まれていることに関心を持ち本研究会へ参加した者もいたが、彼は暴力に対抗する平和を理論的に考察する過程でアナーキズムに到達したと説明した。彼によれば、アナーキズムは一般に暴力を伴う危険な思想ととらえられがちであるが、本来の思想は平和主義にあるとのことである。彼が発表中に紹介した、カンボジアで立ち退きを経験してきた人々から入手してきた写真の数々は、参加者が問題の根深さを理解するうえでも貴重な資料であった。

質疑応答では様々な議論がなされた。例えば、「地理学におけるアナーキズムを考える上で、どのようなエージェンシー(行為体)があるのか?」といった質問が出た。スプリンガー氏はNGOやNPO、相互扶助、コミュニティ組織など様々が挙げられるが、重要なのは交渉の過程であると強調した。個人主義を強調することは、同時にネオリベラリズム(新自由主義)とも親和性が高くなるが、それは時としてジェノサイドなど暴力の文化的理由を正当化してしまうので危険である。彼によれば、ネオリベラリズム批判を含む反資本主義的な批評は根底でアナーキズム(反政府的批評)と共通する部分が多いが、これらは従来のマルクス主義では十分論じられておらず、理論の再検討が必要である。

難民やホームレスなど、安住の地から立ち退きを迫られたり立ち退かざるをえなかったりする人々は、現在も世界各地に存在する。また、一度彼らがその地を去った後は、本岡氏が指摘するように存在そのものが忘却されがちである。日本の人文地理学でこのような課題に取り組む研究者は決して多くないが、国内外で発生している諸問題の根源にみられる共通点や新たな課題を、「暴力」「法」「土地」「立ち退き」などのキーワードを通じて批判的に検討していくことが、我々一人一人に求められていると言えるだろう。

(出席者:28名、司会&記録:二村太郎)