地方コミュニティ・ポリシングによる都市空間の統治
―観光都市「京都」におけるセキュリティ・景観・地域自治
開催日 | 2017年7月15日(土) |
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会場 | 同志社大学今出川キャンパス 良心館 419教室 京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町601番地 |
<発表>
コミュニティ・ポリシングによる都市空間の統治
―観光都市「京都」におけるセキュリティ・景観・地域自治
<発表者>
山本奈生(佛教大学)
本報告では「観光都市」京都を対象とし,2000年代に高まりをみせたセキュリティに対する希求が,都市空間をいかに変容させたのか社会学の立場から考察する。具体的には,観光都市におけるセキュリティと景観をめぐる都市空間の編成が,地域自治会などのミクロな問題関心とマクロな政治経済と接合しながら,いかに「国益」や「観光都市」に資する空間造成へと向かうのか,京都市の繁華街の一つである木屋町を事例に検討する。
はじめに,2000年代におけるコミュニティ・ポリシングに関わる学界や社会の動向をいくつか確認する。
2000年代は,D.ライアンの『監視社会』(2001年出版,2004年邦訳)が出版されるなど,英米圏で監視社会論が盛り上がりをみせ,日本でも治安強化の問題が議論された時期である。その中で,監視カメラの増大や,リスク人口の抽出などが問題化され,それらはM.フーコーがいうところの,人口に向っていく権力性の問題として議論された。監視社会論による,テクノロジーの発展によるリスク人口の抽出やプライバシーへの脅威といった問題提起はよかったが,それが個別事例においてどのように作動しているかを捉える課題が残された。
他方で社会状況に目を向けると,この頃は,池田小学校の連続児童殺傷事件をはじめ,センセーショナルな事件に多くの報道時間が割かれた時期である。また,「犯罪認知件数の増加」や検挙率の低下も生じ,治安の悪化が喧伝された。それに対し,モラルパニックや厳罰化ポピュリズムをめぐる議論が展開されたが,安心・安全に関する具体的な取り組みもまた推し進められていった。
この時期の安心・安全をめぐる取り組みや議論に大きな影響を与えたものの一つに,「割れ窓理論」がある。後述の「犯罪対策閣僚会議」でも言及されるなど,日本でも広く浸透したこの理論の背景には,ニューヨーク市におけるリベラルと保守との係争が存在する。G.L.ケリングとC.M.コールズによる『割れ窓理論による犯罪防止』(1996年出版,2004年邦訳)は,ニューヨークの治安悪化の背景として,リベラルや個人主義者たちが犯罪や無秩序を野放しにしていた点を指摘する。こうした批判の主な対象となっていた,リベラル派のニューヨーク市長(1990-1993年)D.ディンキンズは,警察官がコミュニティに向かって寄り添う,コミュニティ・オリエンテッド・ポリシングを掲げ,ある種の包摂的なパターナリスティックな社会福祉政策を推し進めていた。それに対し,その後市長(1994-2001年)となり,「割れ窓理論」を実践したR.ジュリアーニは,警察は厳しく無秩序を取り締まるべきとし,大きな論争が巻き起こった。しかし,日本に「割れ窓理論」が紹介される際は右派と左派をめぐる政治的文脈や政治的問題があまり触れられずに,ある種のメタファーであった「割窓」を真正面から捉え,落書きを消すことの推奨など,実践面がクローズアップされ,取り組みとして展開されていった。
それでは,以上のような2000年代以降,コミュニティ・ポリシングをめぐり,日本の国政,自治体,現場の水準ではそれぞれ実際に何が生じたのだろうか。
国政水準で注目すべきこととして,2003年に小泉政権のもとで設置された内閣府主導の省庁横断組織である「犯罪対策閣僚会議」が挙げられる。同会議による動きは,入管や警察力の強化といった新保守主義的な傾向を含むものであった。その後,同会議は,もともとは治安の問題と関係のない,PFI事業の展開などを主題としていた「都市再生本部」と関連する。2005年になると両者は合同で会議を持つようになり,「安全で安心なまちづくり全国展開プラン」が発表された。具体的には,都市部における「繁華街対策」「来日外国人対策」「自主防犯ボランティアの奨励」を目的に,京都をはじめ,著名な繁華街・歓楽街を抱える都道府県がモデルに選定された。
こうした中,京都市(自治体水準)では2005年に警察内部の所管を越えた「祇園・木屋町特別警察隊」が設立された。そして市内の繁華街の一つの木屋町通りには新たな派出所が設置された。また,京都市ではこれと別の動きとして,各界の有識者からなる京都創生懇談会により,京都の文化や伝統に関する議論を踏まえた「国家戦略としての京都創生の提言」が提出された。そうした中で,門川京都市政のもとで2007年に景観条例が施行されるが,その後,この景観の問題と治安の問題とが合流することとなる。
現場水準をみると,木屋町周辺はもともと居酒屋や奥まったバーを中心とした「行儀のいい」繁華街として認識されていたが,2000年ごろには,マナーの悪いお店の増加や治安の悪化が盛んに語られていた。その背景には,1993年の小学校廃校に伴う風営法の適用制限範囲の狭小化があった。そして2004年に殺人事件が発生すると,この事件は起こるべくして起こったと捉えられ,同地域の象徴的な事件としてみられた。
そうした中,京都市と中京区の主導で,この地域に町内会や防犯委員会をはじめとする地域住民組織関係者からなる「立誠まちづくり委員会」が2004年に設立された。そこでは,年長者の地域住民により,治安・犯罪対策の重要性や行政・警察と街区の風紀を守ること,また,「行儀の悪い」新規店の治安への悪影響などが確認された。その後,「割れ窓理論」の実践かのような取り組みがなされていく。たとえば,上述の「祇園・木屋町特別警察隊」とまちづくり委員会との合同パトロールが実施されたり,新景観条例を念頭においた,「京都らしくない看板(=店舗)」の指定作業が行われたりした。
特に看板の指定作業は別の問題を孕んでいる。ここで看板の是非を決めているのは,住民となる。しかし,行政主導のもと一部の地域住民で運営された,まちづくり委員会という半ばクローズドな草の根の場が,条例運用上の「何がよくて何がだめ」といった規準を決める場となったのである。自分たちの地域がどのような景観を持つべきかを地域住民で考えること自体はよかったが,それを一部の住民で決めるのは,擬似的な地域自治と捉えられよう。この先には,熟議民主主義やラディカル・デモクラシーをいかに考えるかという問題や,公共のパブリックなストリートを誰がどのように管理するのかという問題が存在する。
本事例をもとに2000年代以降のコミュニティ・ポリシングの展開をまとめると,国政の水準では,「犯罪対策閣僚会議」に象徴されるように,言説的にも政策の内容的にも新保守主義的な傾向を含むものであった。他方で,現場(木屋町)の水準では,住民たちはそのことをほとんど意識しておらず,犯罪対策閣僚会議の設置など国政水準の動きをほとんど知らないし,「割れ窓理論」についてもあまり伝わっていない。
時系列上は,国政水準の動きが最初にあり,それを受けて地方自治体が各種のまちづくり政策を展開し,その枠の中で地域自治が喚起され,旧来からの住民たちが立ち上がるという流れがみえる。他方で,本事例は,下から上に上がったものとみることもできる。つまり,地域で声が上がったから地方自治体が動いて,それを国政が公式化したとも捉えられる。これはポピュリズムの一つの問題である。ポピュリズムにおいてはマジョリティーのいうことは先取りしないといけないので,このような循環はあり得るものといえる。
<コメント 1>
杉山和明(流通経済大)
コミュニティ・ポリシングにはハード面とソフト面とがある。ソフト面は,警察の市民等への歩み寄りと,市民等の自主的な参加で協働が進んでいった。他方で防犯環境設計にみられるようなハード面の施策も展開された。山本氏の著書『犯罪統制と空間の社会学』(2015年)によれば,2000年代の犯罪政策や都市計画的な空間の表象と,擬制的な当事者による表象の空間とが入れ子構造を形成することで,古くて新しい街区の空間のプラティークが物質的に形成されるとのことであるが,上述のソフト面の充実が,ハード面の刷新を迎え入れ,新たな空間が形成されていくというのが空間のプラティークであろうか。
他方で,報告にあった安心・安全をめぐる施策や取り組みはその後も継続しており,2013年には犯罪対策閣僚会議によって「世界一安全な日本創造戦略」が決定されている。京都でも東京オリンピック・パラリンピックに向け,京都市と京都府警による「世界一安心・安全・おもてなしのまち京都市民ぐるみ推進運動」が始まっている。そこでも,上述のソフトとハードを融合する動きがみられる。それと並行してハード面の刷新が次々と生じており,京都府警では予測型犯罪防御システムの運用が始まっている。
こうしたデータに基づいた監視の動きは驚異的に進んでいる。また,監視カメラの高度化と顔認証システムにみられるように,安全,効率,利便がセットとなり,マーケティングベースで導入されるようになっている。また,マイナンバーの高度利活用の問題もある。オリンピックを控える中,このようなデータベイランスの進展が空間のプラティークとしてどのように表れていくのだろうか。
<コメント 2>
麻生 将(立命館大)
イギリスの文化地理学者のD.シブレイは,人文的景観は排除の景観として読むことができると指摘した。都市空間においてもまた,景観の中には排除に関わる実践・記憶・言説が内在あるいは堆積しており,都市空間と排除は切っても切れない問題である。特に今日の都市空間においては,異質なるものとの共存があまり許容されなくなっている。ただし,その際の異質なものの排除は,露骨な形ではなく,住民自治といったように,間違ったことをしているのではないといった雰囲気の中で生じる印象がある。また,こうした排除は,内なる安全が強く望まれれば望まれるほど,外に対する不安が増幅して、より激しいものなるといわれる。コミュニティ・ポリシングとこうした排除の問題との関係はどのように考えることができるだろうか。
他方でコミュニティ・ポリシングの実践をめぐっては,体感治安の悪化などを背景とした,中央政府による自主防犯活動の必要性に関する言説が存在する。その際,地域住民は巧妙に操られてしまってとみるのか,あるいはやはり自発的に実践しているとみるのか,これは見方や立場によって変化してしまうものなのだろうか。
実践に関しては,人文・社会科学の関わり方についても考える必要があるだろう。地理学であれば,たとえば,防犯マップの作成や、GISを駆使した犯罪の密度分布図の作成など,安全・安心に研究が一役買うという事例がある。しかし,地理学では実践への関与に対して批判的な議論があまりみられない印象がある。社会学など他分野においては,この点についてどのように考えられているのだろうか。
<質疑と司会所見>
質疑は,山本氏によるコメントへの返答の後,全体で行われた。コメントへの返答も含め質疑の内容は次の4点にまとめられる。
①ソフトのコミュニティ・ポリシングとハードの防犯環境設計は不即不離で,前者における後者の実現の問題を考えることはよくある。補助金を用いて商店街に監視カメラを設置する例などは,ソフトとハードを一体に議論する必要がある。
②都市における異物の排除については,排除自体を批判的に考えることも大切であるが,排除の過程を検討することがより重要である。本報告を例にとると,伝統的地縁集団が持つ現場水準の支配形態がいかに国政水準の新保守主義の問題と合一したのかといった点を考えたり,異物の排除がジェントリフィケーションなのか,伝統的地縁集団の問題なのか,民間企業に公的なものが売られる過程なのかを見極めたりする必要がある。
③コミュニティ・ポリシングの実践への研究者の関与は社会学でもみられる。たとえば,犯罪社会学会には,批判的にアプローチする研究者の一方で,行政関係者や実践に関与している研究者もいる。しかし,相互にあまり関わりを持っていないのが実情で、議論を行うチャンネルが切れてしまっている。
④大学をはじめ,公共空間・施設における監視カメラの設置が進んでいる。かつては,監視カメラの設置など,公共空間・施設における監視に対しては,プライバシーの侵害として対抗する動きもあったが,侵害されるものが明示しにくいことや,監視を必要とする大衆意識が存在する中,対抗言説もなく,批判しにくい状況となっている。そもそも問題の解決を警察へ委ねることが多くなってきており,空間を管理することに対する自治や責任を引き受ける意識が薄れてきているのではないだろうか。
本研究会では,一時に比べ安全・安心をめぐる批判的な議論が低調気味に映る一方で,その間も,安心・安全に関する技術の発達や商業化が進む中,セキュリティや治安に関する施策や取り組みが着実に進展していることが再確認された。他方で,セキュリティや治安は,マクロな政治経済,ローカルな支配構造,イデオロギーをはじめ,さまざまな政治的・社会的要素と多分に関わるものであるが,こうした関わりが見えづらくなっている。そうした中で求められているのは,都市,コミュニティ,公共空間・施設などにおけるセキュリティや治安をめぐる動きを改めて吟味し,そうした動きが抱える諸問題を的確に捉えることができる「言葉」を再構築することであろう。本研究会は,安全・安心に関する必要な議論を浮き彫りにするものであり,今後の研究に向け非常に示唆に富んだものであった。
(参加者:17名,司会・記録:前田洋介)