政治地理研究部会 第12回・地理思想研究部会 第118回 合同研究会報告

人種・民族をめぐる空間闘争―クラウディオ・ミンカ氏を迎えて

開催日 2014年11月22日(土)10:00–16:30
会場 大阪市立大学杉本キャンパス高原記念館
共催 大阪市立大学大学院文学研究科地理学専修
同研究科インターナショナルスクール日常化プログラム

<講演者>
クラウディオ・ミンカ(オランダ・ヴァーヘニンゲン大学教授)

■第一部

<発表>
ヒトラーの地理、ナチスの空間性

最初に生命科学と政治的なるものとの関係についてお話ししたい。どのように生命に関する科学が社会化され、政治化されるか、そしてなぜ私が今こうした「生政治biopolitics」に関心を持っているのかを説明する。今地理学は生政治的転回を迎えているとも言われるが、近年の地理学文献をみると、生政治に言及する文献数は膨大である。生政治的観点から空間的、政治的問題を見ようとする研究は急増している。

では、生政治とは何か。1976年のフーコーの優れた定義があるが、生政治とはどのように生命と政治が関わるか、どのように生命が政治に組み込まれ、どのように生命の政治が政治的アジェンダになるかについての見方である。生政治は新しい学問的流行になりつつある。

現在私が関わるナチスとヒトラーに関する共同研究は、いくつかの根本的な疑問から構成されている。第一の疑問は「地理学は本来的に生政治的なのか」である。もし地理学が本来的に生政治的であれば、その結果はどうなるのか。私たちはどのように生命と政治を地理学的観点から考えることができるのか。これが我々の主要な疑問である。

例えばイタリアの政治哲学者は、生政治は生命科学の中で議論され始めたという。実証主義的な分野では、政治社会的な行動は科学的、生物学的分析を通して理解できる、つまり生物学から政治が理解できるとされた。ヨーロッパでは生命科学と政治との関係には長い伝統がある。しかし、ランケなどドイツの社会学者たちは生政治という用語を1920年に最初に用いたのはルドルフ・チェレンだという。彼は「地政学geopolitics」という用語を初めて用いたことでも知られる。

チェレンはフリードリッヒ・ラッツェルの影響も強く受けている。生物地理学はラッツェルによって人類地理学の中で展開され、その20年後にドイツとスウェーデンで生政治が研究され始める。そして生存空間Lebens Raumの概念がナチスの政策の中で重要な意味を持つようになる。したがって、生政治の起源をナチスの時代にさかのぼって考える必要がある。これは今日の生政治や生政治制biocracyを理解するために、ジョルジョ・アガンベンによっても示唆されている。これが現在の共同研究の背景である。

さて、バイオセキュリティが現代政治の新しいパラダイムになりつつある。しばしば感染症や感染爆発など疾病が生政治的用語で語られ、多くの組織で生政治が戦略的ツールとして用いられるようになっている。例えば英国の場合、豚インフルエンザのワクチンの保管場所は秘匿され、軍が警備することにしている。またワクチンを投与される「重要な」人々のリストが作られ、その他は抽選となる。つまり、ある人々の命はその他の人より価値あると認定され、命がそのような計算のもとに置かれているのである。

次に人種的プロファイリングの問題がある。生体認証は空港や都心部でも確認される。特定の人物の身分とその身体が完全に一致するかを確認する事業に政府は多くの投資をしている。身分が生物学的に固定され特定できるということは明らかに生政治的な考え方である。一方で、医学や生物学といった純然たる「科学」は人々の生物学的アイデンティティを特定するツールを与える。よって生物学的な市民権について語ることができる。他方でそうした生物学的市民権の政治化がある。それは特定の社会的戦略を必要とする。したがって、私の研究課題は、生命が完全に科学的計算の中に組み込まれるという考えが再び台頭しつつあるのか否かを明らかにすることである。

そこで、生政治についてもう一度整理したい。フーコーは1976年に生政治を新しいタイプの統治性として示した。これ定義は大きな転換点となり、社会・人文科学者は彼を生政治の主唱者と認識した。フーコーの著作は生政治の研究において避けられない業績となったが、統治性の議論に加え、彼が人口を政治的術策として定義したことは非常に重要である。彼は個人や人口の概念を新しい空間的な、計算可能な抽象へと置き換えた。人口は管理し、計算し、操作できるものと考えられたのである。

その後、生政治の議論はアガンベンによって再び展開される。アガンベンの研究対象は主権権力と「剥き出しの生」である。アガンベンが9.11以降有名になったのは、9.11が投げかけた問題に答えを出しうる哲学者だとみなされたからである。彼は一方で主権の例外状況を検討し、カール・シュミットを批判的に読み解いた。もう一方で生政治についてフーコーのミクロな政治をハンナ・アーレントが論ずる全体主義制という大きな枠組みに結びつけた。

2年後、イタリア人によるもう一つの重要な成果『帝国』が著された。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートはほとんどアガンベンに言及していないが、「バイオ資本主義biocapitalism」という概念を用いている。資本主義がバイオ(生命)を用いて革命的に新しい富や機会を創出するという意味である。ここでもフーコーが参照されている。

別のイタリア人知識人ロベルト・エスポジトは「肯定的なaffirmative」生政治を研究している。アガンベンは生政治を否定的なものとみなしていると批判されるが、彼は肯定的な観点から免疫のパラダイムについて論じ、生命科学を検証し、ナチスの議論へと立ち戻っている。

このように生政治の議論はサイボーグ、サイバーボディ、バイオ資本主義を含み、ポール・ラビノウのnew antholopos といったポストヒューマンの議論へと展開している。これが哲学と社会科学の中核をなす議論なっている。さらに植民地主義的産物が生政治のプロジェクトから生まれているという議論がある。ギルロイによる収容所や人種と生政治との関係論、アキーユ・ンベンベの死の政治学necro-politicsも植民地主義と関わる。これらの思想の起源は、社会あるいは人間の集合的身体は生物学的介入を通して改善されるという、特に第一次世界大戦後のヨーロッパ史に通底する考えにある。

今日の生政治を実証的に見るならば、対テロ戦争、移民収容、細菌戦、バイオテクノロジーの問題などに関する研究は、どのように我々は人間の生と死を区別するかを問うており、生死の定義は大きな政治的問いでもある。そして福祉国家が人口(健康)管理を通してこれからどうなっていくのか、移民、亡命希望者、難民をどう扱うのかという問いもある。特に難民は、国民国家の退行を前に、新しい、いまだ答えが見つからない生政治的問題を提起している。主権の「例外」という緊急状態が医学的緊急事態やテロリストの蜂起などで実行されることも指摘されている。

地理学と生政治との関係については、やはりアガンベンの議論を待たねばならなかった。9.11に伴う対テロ戦争やブッシュ・ドクトリンを通して、地理学にも生政治の議論が持ち込まれ、アガンベンによるフーコーの解釈、ホモ・サケルという概念が地理学的研究の重要な関心となった。そして例外状態の概念は例外空間の概念へと置き換えられ、収容所は重要な政治的テクノロジーと理解されるようになった。

フーコー、アーレント、アガンベン三者の関係は、地理学がどう生政治について記述するかを考える鍵となる。現在、生政治、アガンベン、フーコー、移民収容所などに言及した地理学的研究は非常に多く、国境や境界形成borderingに言及した研究も急増している。これらの研究の中には、対象としているテーマを地理学的に検討することで、さらに学際的な議論に結び付けようとするものがある。政治学、哲学、人文学、社会学、人類学からの研究も多い。人口管理や家族政策、バイオ資本主義やバイオセキュリティ、自然の概念化に関する生政治的研究などが、地理学内外からなされている。我々もナチスの地理学を通して生政治について研究している。

これらの地理学における生政治研究の中で重要なものとして被収容者の管理がある。どのように被収容者の身体が客体化・非人間化されるかという問題、そして被収容者のモビリティや身分の問題などは地理学的次元をもつ。特定の人物の拘留をめぐる生政治的戦略にはグローバルな包囲網があり、それは同時に地政学的でもある。生政治と地政治はこうして非常に近似的なものになっている。グァンタナモ基地の地政学的な意味は、アメリカの覇権の問題だけではなく、あのような収容の在り方が現代世界において自分にも起こりうる、最も象徴的な例外空間の例ということにある。

私が関わるナチスの第三帝国に関する共同研究「ナチスの地理」は、生政治と空間の問題に着目している。アガンベンの論考をベースに、異なった歴史的地点から多様な生政治と地政治の問題を考察しているが、ナチスの地理的側面については英語圏では研究が不足している。我々の関心は、第三帝国の空間理論というものが存在し、この理論が「生bio」と「地geo」を結びつけた点にある。

また私は「カール・シュミットの空間」という論文も書いた。彼はナチに属し、非常に影響力を持った法理論家で、非常に保守的な人物であったが、現在左翼学者らから注目されている。彼は空間理論家でもあって、私は彼の所説の空間的側面を分析し、彼がいかに深く人種主義的で生政治的かを示した。彼はユダヤ人問題を空間的問題として提示しており、戦後ヒトラーの東欧侵攻に影響を与えたという理由で告訴された。彼は釈放されたが、彼のGross Raum(大空間)という考え方は、マッキンダーやラッツェルらの地政学的伝統から派生している。それは現代の地理学における生政治への強い関心にもつながる。

これらの研究に関連して二つの点に注目してほしい。一つは生存空間の問題。1980年代の終わりに地理学でもナチスの地理についての議論があった。ナチスへの科学の介入について最も注目すべきはヴァルター・クリスターラーの関与である。彼はもともと社会主義者であったが、彼は自らの中心地理論を通してヒムラーが推進した占領地の地理学的構造の改編に関与していく。地理学者、特に米国の地理学者らは、このことを知らずに戦後中心地理論の応用を進めた。

二つ目はアウシュビッツの現代的意味である。クラクフでのIGU地域会議の際、収容所に関する講演を行い、ホロコーストの中心拠点であったアウシュビッツを訪問した。今はホロコースト「産業」が発達し、数百万人が訪れている。ここでの問題は今日アウシュビッツが政治地理学にとって何を意味するのかである。アウシュビッツで行われた生政治的実験は現在に対しても教訓を与え、その意味、記憶、遺産はいまだに激しく議論されている。第三帝国の文化地理という観点からは、アウシュビッツは一つの地域的プロセスと見ることができる。そこに収容所があるということだけでなく、それはもっと広範な政治経済的な再構造化のプロセスの一部としてある。

したがって私たちは共同研究で、異なった歴史的段階における第三帝国の歴史記述、政治哲学、文化史、そして政治地理を相互に結びつけることを試みている。検討すべき理論的基盤は三つあり、一つはナチスのプロジェクトの中でどのように「生」と「地」が結びついたか、次にナチスの空間的イデオロギーの中での空間と場所との関係、そしてどのように「ナチスの地理」を通してイデオロギーと実践が組み合わされたかである。この研究の最終目的は、ヒットラー主義の哲学を空間論的に明らかにすること、生政治の地理学的起源をさかのぼること、そして学問の世界に生政治と実証主義が立ち戻りつつある事態に対処することである。


■第二部

<発表>
トリエステ―境界をめぐる(非現前の)文化・政治地理

トリエステ生まれとして、国境は常に私と共にあった。私のトリエステについての研究は、国境的思考の問題、リンガ・フランカと考えられたトリエステ方言の問題、そしてトリエステの国境アイデンティティの問題という大きく三つの側面に焦点を据えてきた。私はこれらの問題を、特にトリエステにおける「非現前 absence」の地理を通して考えてみたい。

近代のトリエステは、ハプスブルク家によって、中央ヨーロッパのセント・ペテルスブルクとして創出されたが、それはとてつもない都市的実験であった。二世紀半以上の間、トリエステはヨーロッバのブルジョア・モダニティにとって歴史上重要な緊張と不安、そして希望と野心の舞台であった。今日トリエステは、ハプスブルク家から死別した気高い未亡人として、憂うつな衰退の舞台として、壮大な帝国的プロジェクトの記憶が具象化されたものとして描かれることが多い。

こうしたトリエステの地理はその「非現前の地理」の産物として読み取ることができる。この「地理」は、ナショナリズムの誕生からヨーロッパ人という主体の危機に至る、20世紀の最も悲劇的なドラマとヨーロッパのモダニティについての最も先鋭的な矛盾によって形作られている。

私はトリエステの国境アイデンティティに関する調査を、トリエステの歴史を近代的ブルジョアの主体と結びつける三つの地理的想像力から構成した。第一は「トリエステ人 Trieste Nazione」という概念である。第二は都市の「領土的」な定義から派生する「民族問題」の役割である。第三はトリエステの理想化された「非現前の地理」である。 19世紀の前半に、「トリエステ人」という概念とそれに関連した神話が現れ、統合されたのはトリエステが理想化された後である。この時期トリエステは多様な新しい芸術的、建築的プロジェクトによって美化され、文化的生活に投資が集中し始める。都市商業層は、その利害を自由港の頃のようにウィーンとは直接には結びつけず、自らのニーズと野心を文化と政治の領域に見出し始めた。

ここで、トリエステの複合的なアイデンティティのはかない本質をとらえようと、「過去のない」新しい都市のルーツ探しが始まる。そこから、トリエステの「特殊な」歴史的使命という考え方が現れる。つまり、この都市の多民族的な金融・商業エリートが地方史家ロセッティのいう「都市愛郷心 urban patriotism」という概念を採用する。広大なハプスブルク帝国の周縁に位置する都市として、多民族的な商業中心と海運港としての使命から「コスモポリタン的」、そして言語から「イタリア的」という、トリエステの独自性についての認識が定着する。つまり、相互にトリエステ語を話しながら、都市の多様なコミュニティは出自民族に応じて文化的独自性を維持したということである。

この状況は「此処にいることhereness」(市民の純然たるトリエステ性で確認される)と「他所にあること elsewhereness」(市民の離れた、その意味で「現前しない」民族で具象化される)との間の終わることなく変転する相互関係から生み出される。実際、トリエステの支配的な想像力は、そうした「非現前の地理」をめぐって常に構築され続けている。それは領域国民国家というヨーロッパのブルジョア・モダニティを支えた「本質の地理」と正反対の意味を持つ。

また、近代のトリエステは、中央ヨーロッパに対するアドリア海の水平線という政治経済的投影として、オーストリアの東洋への門戸として誕生した。トリエステの位置と存在は、中央ヨーロッパとの接合なしに、あるいはアドリア海とその海洋水平線なしに意味をなさなかった。それはまたトリエステがヨーロッパの地平(水平)になるには理想的な地理であった。

この理想の地理に現実味を与えたのは共有された都市の言語、トリエステ方言であった。この方言はスラブ語、ドイツ語、ギリシャ語の影響を受けたヴェネチア植民地の地方語である。この理想的な言語の容器の中で、トリエステのユニークな「都市民族」が特定の領土と結び付けられず、もっと広大な海の水平線によって喚起されたことが、都市の文化を特徴づけた。

しかしながら、1848年は重要な転期となった。この年、初期の「非現前の地理」が領土的な形態を持ち始め、コスモポリタン都市の理想の終焉が始まった。コスモポリタンな観点からよりも民族的、領土的観点から都市の理想的な非現前の地理を再定義する試みによって、トリエステの「差異の戯れ」は競合するナショナリズム間の死闘へと置換されたのである。

トリエステの「イタリア性」は、かつてはこの「都市民族」の固有性を示す一つの文化的マーカーにすぎなかったが、排他的な民族的帰属、つまり領土のマーカーへと変容していった。イタリア系トリエステ市民は、自らを失われた母国の孤児として、(民族が)現前しない地理の一部として、実現を待望するイタリアの民族的夢想の投影として、考え始めた。

1860年代から第一次世界大戦勃発までのトリエステを特徴づける二番目の非現前は、ウィーンの非現前であった。ウィーンはトリエステから自由港の地位をはく奪したが、この地位によってトリエステは全体的な自己イメージとそのヨーロッパと地中海との中心性を構築していた。オーストリアによって「捨てられた」、母国(イタリア)の「孤児」というとらえ方がこのころ現れるが、トリエステのエリート層は19世紀の後半と20世紀初頭をウィーンにかなり依存しつつ、イタリアとその民族的理想を熱狂的に夢見る貴族として生きた。イタリア的トリエステのこうした二重の魂は苦難に満ちた20世紀を通しても残り続ける。

これらの期間の三番目の非現前は、トリエステのスロベニア人コミュニティによって知覚された。それは当時首都と国家を共に欠きながら、トリエステをその本来の首都として、その歴史的地理的運命として創造し始めるスラブ民族の非現前である。

要するに、これがトリエステの理想化された非現前の地理を枠づける歴史的文脈であり、それは二つの要素の間の緊張として特徴づけられる。つまり、一つは急激に成長・進化する都市の多様な民族的、政治経済的コミュニティの間にある流動的なアイデンティティの実践と複雑な関係の網の目、そしてもう一つはますます領土的になる地理的想像力である。

トリエステが20世紀に経験する悲劇的な時期の淵源はこの変化にある。この時期はファシスト時代の矛盾、ナチスとユーゴスラビアの占領、さらに米英の暫定政府、そして20世紀後半を特徴づける冷戦の地理の前線という新しい立地状況を含む、多様でしばしば劇的な局面からなる「イタリアへの復帰」の後に起こる喪失と衰退の感覚を伴っている。

しかし、これ以外の結末が果たしてありえただろうか。トリエステのような、理想的な非現前の想像力は、その本質において、現前しないものとの再統一によって解決されないし、単なる「現前」によっても解決されない。それが生き残り、繁栄できるのは絶えず変異し、常に新しい地平によって駆り立てられる創造的な均衡の条件下だけである。そして地平とは「ハードな」、定義された領土によって与えられない。それは、定義上、投射と構想 であり、未来へのまなざしである。故に、非現前の地理の物質化はそれ自身幻想にすぎないか、(領土の)罠になりかねない。

では、どのように今日のトリエステを描けるだろうか。いくつかの点で、「トリエステ人」という理想化された想像力は、20年ほど前から少しずつ台頭し始めている。それは差異に関する皮肉に満ちた、全く世俗的な理解の仕方である。実際、全てのトリエステ市民はよそ者から構成され、「トリエステ性」とは決して固定されたアイデンティティではなく、単に「常に遷移する一つの存在様式」、それが何でないかによってしか定義されないものである。

遷移的存在を長きにわたって暴力を伴う地図学的理解に押し込んできた国境の消滅は文学ならとらえることはできても、公式の政治ではとらえられない条件であった。しかし、それが今や国境について考え、この国境都市の将来を想像する可能性の新しい組み合わせを示している。それはあたかもその国境の脱物質化が、民族主義者の心象と戦後の全時期にわたる後悔の文化に流れ込んだ領土的理解の本質がはかないものであることを示しているようである。

1991年よりもずっと前に、ほとんどのトリエステ市民にとって国境は既に全く異なった意味を持っていた。つまりそれはイストリアやダルメシアの海岸での週末の行楽、日曜の昼食、そして夏の休暇のために習慣的に横断されるものであった。実際のところ、膨大な数のヒトとモノの交流によって、1960年代以来既にトリエステはヨーロッパでもっとも開かれた国境地域となっていた。

そしてトリエステの方言はトリエステの帰属意識の鍵であり続けた。しかしながら、今日、この方言を話すのは、最近移住したセルビア人やボスニア人からマグレブ諸国や中国からの移民の子供たちまで、都市の多様な移民コミュニティの成員である。19世紀にそうであったように、今日もこのリンガ・フランカは「トリエステ性」への帰属の証しである。しかし、それは民族的でも領土的でもなく、単に都市的で、トリエステ的でないものからの違いを示す共通のマーカーであり続けている。つまりトリエステ性とは構築的で、流動的で、不断に交渉される非現前の地理の組み合わせであり、つまり新しい形態の都市市民権が再創造されるべき地勢なのである。


<司会所見>

政治地理・地理思想研究部会は、イタリア人地理学者ながら英語圏の文化・政治地理学の牽引者の一人であるクラウディオ・ミンカ氏を迎え、二部構成からなる上記講演会を開催した。氏は2012年11月に同じく二部会の合同研究会で講演予定であったが、来日が中止され、今回は当時予定されていた講演(第二部)に、氏の近年の研究に関する講演(第一部)を加えた。いずれも英語で行われたが第二部には逐次通訳を付けた。テーマは、いずれも第一次世界大戦以降のヨーロッパを事例とした、生政治と地政治の接合、そして民族をめぐる空間闘争(空間の領土化)であり、理論的かつ実証的で重厚な議論が展開された。

要約にあるように第一部は、フーコーが定義した生政治の概念が、第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて人口や身体を科学的に管理し社会改良を図る戦略として発生し、空間の管理に関わる地政治(地政学)と密接な関わりを持つことを指摘している。この密接な関わりはナチスの理論と実践の分析を通して解明できるというのが氏の主張である。それが、特に911以降の、生命と身体の管理に関わる科学的テクノロジーと政治との関係を理解する重要な鍵となるとされる。言い換えるならば、政治の術策としての地理的知識は、近代において人口と社会を管理する上でも大きな役割を担い続けているということである。講演はそうした生政治的実践に対する一つの警鐘としても聞くことができた。

こうした理論的、哲学的、地理学史的内容からなる第一部に対して、第二部は氏の故郷でもあるイタリア北部の国境都市トリエステに関する具体的な話題であった。トリエステは、第一次世界大戦期までコスモポリタン都市として繁栄を遂げていたものの、国民国家間の対立と戦争に巻き込まれることにより、領土化とナショナリズムの力学の中で、そのアイデンティティを変容させていく歴史地理的プロセスが描かれる。ここでも、第一次世界大戦から第二次世界大戦における民族主義や領土主権というイデオロギーの問題が提示され、EU内でのトリエステの立ち位置(とその地平horizon)をめぐる現代的問題に結びつけて議論された。国境と民族という問題を歴史・政治地理的に考察する上で極めて興味深い講演であったと言える。

最後に、両講演に通底する一つの概念が境界形成borderingであったことを付言しておく。すなわち生政治と地政治の接合や民族の領土化を可能にする戦略がこの境界形成であり、近代国民国家の重要な機能が境界の画定・操作による人口集団の管理なのである。現代世界におけるクリティカルな地理学の理解にはこの視点は不可欠であり、政治地理学と地理思想の重要な視座として確認できたことは参加者にとって収穫であったと言える。参加者との質疑応答も以上の諸点をめぐって活発に行われ、長時間ながら充実した研究会であった。

(参加者20名、司会・通訳・記録 山﨑孝史)