政治地理研究部会 第17回研究会報告

文化の政治学は死んだのか?―『戦争と広告』から考える物質性、視覚性、日常生活と政治―

開催日 2016年6月18日(土)
会場 新大阪丸ビル本館5階511号室
〒533-0033 大阪市東淀川区東中島1丁目18-5

<講演>
文化の政治学は死んだのか?―『戦争と広告』から考える物質性、視覚性、日常生活と政治―

<報告者>
森 正人(三重大学・准教授)

本発表は近著『戦争と広告 第二次大戦、日本の戦争広告を読み解く』(KADOKAWA、2016)の理論的背景を紹介しながら、「政治」の物質性、視覚性、日常性の「地理」を考えることを目的とする。したがって、書籍の詳細な内容紹介は目的としない。

近年の日本における政治状況には諸矛盾があまりに多く顕在化しており、多くの的確な批判が提出されてきた。問題とすべきは「にもかかわらず」圧倒的な支持をこの政治体制が獲得していることである。振り返れば、イギリスにおいて1950年代後半から形をなす「ニューレフト」の運動は、「文化的なるもの」に関心を寄せることにより、この「にもかかわらず」を明らかにしようとしてきた。レイモンド・ウィリアムズが「感情の構造」と呼んだ一番繊細で感知しにくいところで働いている嗜好性の社会性、すなわちイデオロギーが「文化の政治学」として解体されてきた。本書もまた、こうした文化の政治学的研究の一つである。

しかし、近年の英語圏における文化地理学を見わたすと、1980年代後半から「新しい方向」「新しい文化地理学」「新しい世界、新しい言葉たち」と呼ばれたこうした文化の政治学への取り組みを見いだすことは容易ではない。イギリスのフィル・クラングは「ファッション後の文化地理学」において、大文字の「文化の政治学」的研究が世界の諸力を過度に固定しており動態を捉えられておらず、しかも日常生活の些細なことに目を向けていると批判されていることを紹介する。代わって、近年では織物としての感覚、身体化、情動、物質性に関心が向けられていると指摘する。感覚や情動、物質性に関わるものとして、2000年代にジリアン・ローズによって主導されたのがvisual turnである。発表者自身は、言葉=人間を「主体」として中心化しないこれらの研究は、広く見れば文化の政治学であると考えている。

『戦争と広告』は日本史でも、メディア研究でも、社会学でさえもなく、イラストや地図、写真などの「視覚イメージの社会性」に関する研究である。それを戦争批判や政治批判に落とし込むととたんに陳腐化する問題を抱えている。視覚イメージこそが日本/敵/守られるべき植民地、男/女、公領域/私領域への心象地理を作っていくことを論じているからだ。しかも戦時中だけでなく、現在における映画や博物館展示にも言及することで、戦時期と現代におけるメディアの政治性だけでなく、ヴァルター・ベンヤミンが論じた「政治の美学化」を例示している。視覚イメージや美術のアウラ喪失は、「大衆」の疎外とファシズムへの耽溺をもたらす。戦時下、現代ともに、戦争に向き合う「個人」の視覚イメージが多用されている。

戦争に限定されず、近年の人文地理学では、視覚的なるもののgeopoliticsに関する議論が多くなっている。視覚イメージの社会構築性という視覚性の問題だけでなく、そうして作られた視覚イメージがその都度に結ぶ、物質、テクノロジー、制度、市場、社会空間、情動、文化史、政治的文脈の諸ネットワークは、visual economyと呼ばれる。すなわち、イメージの生産だけでなく、その循環の回路における流通と消費が織りなすサイード的な心象地理と権力が検討されている。また気候変動のvisual economyにおいては審美的なもの、保護すべきものの物質化や情動の刺激が展開する。発表者もまた、別の場所で固有種/外来種の視覚化・物質化と情動の地理を論じてきた。

政治の美学化に抗する一手段として、美学の政治化の可能性をベンヤミンはほのめかしてきた。そして近年、美術の分野における「関係性の美学」において「民主主義」や共同性の立ち上げの手段として芸術が注目されている。あるいは、住民参加型アートとしては、日本におけるアートとまちづくりも挙げられるだろう。芸術家/観衆の垣根を越えて作り上げられるフラットな関係は、アクターネットワーク理論でも見られる論法だが、しかし本当に政治的な抵抗手段となりうるのだろうか。本発表では最後に、近年のクレア・ビショップとジャック・ランシエールの「観客の解放」批判を紹介しながら、新自由主義における関係性の美学が、結局のところ参加するかどうかを「倫理的なるもの」に委ねており、しかも参加型美術の評価基準が参加人数に数値化され、倫理的なものを誰が規定するかという意味では非常に危険であること、また、資本主義、帝国主義、植民地主義が依然として強力なこの世界における自己/他者の複雑性を指摘した。こうした一連の問題は、たとえば大阪市内におけるピースおおさかやリバティおおさか問題とも、さらには国立大学の人文系学部統廃合論とも重なる。

「二」であることの根源性、遠くにあるものの近さ、諸々の時空的限定を持っての同一化の「場」としての「われわれ」といった問題は、哲学的であり、美学的であり、そして地理学的な問題である。なぜなら、「空間」もまたそうした諸矛盾を持つ私/他者の投げ込まれたものだからだ。そうした空間を再想像するためには、私たちをとりまく物質、視覚の分配配置を『戦争と広告』で試みたように宙づりにし、再分節化する必要がある。


<ディスカッサント1>
山﨑孝史(大阪市立大学)

森氏の著著における対象の選択、解釈の方法、論旨の展開などについて、学問的見地から質問するよりも、森氏の論考を受けて、私としてどう咀嚼し、受け止めるかを中心にコメントしたい。

私自身は政治地理学研究者であり、文化論的転回以降の文化地理学の動向を必ずしも詳しくフォローしているわけではないが、森氏がいう「視覚文化」の政治性は自らの地政学研究の中でも注目してきた。その最初の素材は米国留学中に見つけたもので、1990 年代初頭のジョン・ダワーによる戦間期から戦後にかけての日米双方の政治戯画や雑誌カバーにおける表象に関する小論だった(Dower 1993)。ダワーは、日米間の戦争や貿易摩擦の中で、相手の視覚的「他者化」には何度も反復されるモチーフやイメージがあり、日米間での互いに対するイメージの齟齬が大衆から政府レベルに至る相互理解を阻む要素であることが示唆されている。

その後、英語圏における批判地政学の多様な展開の中で、大衆地政学popular geopoliticsの対象としてキャプテン・アメリカ(日本ではアベンジャーズ・シリーズの映画に登場)などの漫画(コミック)が扱われるようになった。日本でも1990年代の末から、小林よしのりによる「ゴーマニズム宣言」といった政治(保守)思想を色濃く反映する漫画が論争を惹起するようになっていた。そうした流れの中で、私自身も2006年に防衛庁(現防衛省)が刊行開始した『まんがで読む防衛白書』の2007年度版を取り上げ、弾道ミサイル防衛の重要性を説くストーリーの展開と視覚的表現がジェラード・トール(Ó Tuathail 2006)が指摘する「地政言説geopolitical discourse」の構成とほぼ一致することを指摘した(山﨑2009)。近年、伝統(古典)地政学の復活・大衆化が着実に進行しており、今後その視覚的表現が言葉を超えた「わかりやすさ」からさらに普及していくことは十分予想される。

そうした中で森氏の論考を受けて、須藤氏(ディスカッサント2)のコメントにもつなぐ形で、一つ指摘しておきたいことがある。現在の日本には軍隊の表象という点で一つの特徴的なパターンがあると考えられる。簡単に言うと、「強い(場合によっては暴力的な)米軍」と「それほど強くない自衛隊」というイメージの再生産である。「米軍が(より)強い」というイメージはダワーの論考でも指摘されており、上述の『まんがで読む防衛白書』でも日米同盟の意義として強調されている。もちろん米軍出身のキャプテン・アメリカも強力なスーパー・ソルジャーとして表象されている。これと対照的なのが自衛隊の「自己」表象なのである。

もとより「自衛隊」という名称が軍隊のイメージを希釈しているということに加え、『まんがで読む防衛白書』での表象も含めて、防衛省・自衛隊の広報は自衛隊をできるだけ「ソフトな」組織として表象しようと意図しているように思われる。その方向性は、例えば『まんが防衛白書』の作者がほぼ女性で占められており、登場人物の描き方自体がfeminineであることからもわかる。また、渋谷に2008年に開設(2010年に事業仕分けで閉鎖)された自衛隊PR施設「自衛館」はコスプレショップと見間違うかのような内装を備えており、これも「硬派的」要素が弱められていた。最近では、自衛隊大阪地方協力本部のマスコット「まもるくん」の姿に驚いた。本部のホームページによると「まもるくん」の出身は「大阪市中央区(してぃぼーい)」、性格は「だれにでも優しくできる子。楽しいことが大すき! いたずらっ子な一面も?」、好きな食べ物は「外はカリカリ、中はふんわり。ネギ・ショウガ・天かすたーっぷりのたこやき!」で、彼が手に持つのは銃(武器)ではなく「たこやき」なのである。さらに本年4月に公開された自衛隊茨城地方協力本部による女性自衛官を萌えキャラにした募集ポスターなどは、米陸軍のものと比べても、理解に苦しむところである。

私が指摘したいことは、こうした大衆に対する軍事組織表象の「女性化」ないし極端な「ソフト化」が自衛隊の機能や実態をミスリードするということだけではなく、こうした自衛隊表象が、日本の防衛政策における重要なパートナーである在日米軍の「強さ」を意味論的に補完しているとも考えられる点である。私自身は、自衛隊は国際的にも十分に強力な軍隊である以上、そう表象されるべきだと考えるが、こうした自衛隊の過剰な「ソフト化」は、日本人に米軍駐留の必要性を意識下で認識させる作用を持つのではないかと懸念している。あるいは、「屈強な」米軍が駐留しているからこそ、自衛隊を「軟弱な」組織のように表象できるのかもしれない。


<ディスカッサント2>
須藤遙子(筑紫女学園大学)

私はメディア学、文化政治学を専門とし、自衛隊が一般劇映画に協力する「自衛隊協力映画」についての研究を行ってきた。最近は、自衛隊の広報イベント・広報施設と、さらには1950年代、60年代の自衛隊協力映画への米軍の関与について研究をしている。

森氏の著書で一番驚いたのは、「地理学者が広告を語っている」ということだった。私はメディア研究者なので、正直最初は違和感があったのだが、「空間を作るのは「地理学」の領域」という説明に非常に納得した次第である。そこに一貫して見られる「モダニズム」と「テクノロジー」への礼賛には、当時の日本が持っていた西欧近代への憧憬がストレートに表れていて興味深い。また、「戦争の視覚化・物質化」として紹介されていたいくつかの博覧会も、現在、私が調査している全国の自衛隊広報イベント・広報施設との共通点が多々あり、様々なヒントを得た。

ただし、気になった点も指摘したい。一つは、『写真週報』の発行者が内閣情報部であったことをふまえると、タイトルの「広告」は「広報」のほうがふさわしかったと思われたことである。もう一つは、私の専門に一番関わる点であるが、森氏の著書でも具体的に分析されている映画『永遠の0』についてである。自衛隊協力映画でもあるこの映画の製作委員会には、20社くらいのメディア関連企業が入っており、一般的には「左翼的」とされる朝日新聞や中日新聞も入っている。世間の印象とは異なり、朝日新聞は、様々な自衛隊協力映画の製作委員会に入っている。

森氏による『永遠の0』の表象分析は非常に丁寧である。しかし私は、表象のみならず、製作委員会に誰がいるのか、産業構造や製作背景がどのようなものなのかという点を問うところが、文化の政治学だと考えている。森氏の言葉を借りるなら、それこそまさに「諸主体のせめぎあいと調停が織りなす特定の社会的プロセス」にほかならない。実際、映画には、製作を行う人たち、会社の人たち、監督、ディレクター、俳優など、極めて大量の主体が関わっている。かれらが織りなす過程において、パフォーマティブな経済、文化が表出し、文化の塊としての作品ができるのだ。

森氏の報告に「2000年代の言葉や映像を含む社会を構成する諸事物の再帰性」とあったが、表象はある種できあがったもの、固まったものなので、それのみを見ていると、ゆらぎのようなもの、パフォーマティブな部分をつかみそこねるのではないか。これは、私自身がかつてディレクターとして番組製作に携わった経験に基づいてもいる。些細な出来事であっても、それが数々起こることで製作過程は様々に変化し、最終的にはまったく意図していない作品ができあがる。作品あるいは表象というに結果はもちろん重要ではあるが、決してはそれだけには還元できないだろう。

映像や言葉の出口としてメディアという複数の主体が関与する場がある。例えば『永遠の0』においても、製作委員会の20社ほどの企業が同じイデオロギーを有しているわけでは決してはない。しかし、「にもかかわらず」、どうしてそれが『永遠の0』のような特定のイデオロギー色が強い作品になってしまうのか。その過程をゆらぎと呼ぶなら、そこにこそ政治があると考える。それゆえ、私は文化の政治は常にあると考えるし、文化の政治学もあるのだろう。

私は山﨑氏と同様、大文字の政治への関心を有しているが、大文字と小文字の政治の相互作用、また相互依存により興味がある。昨今の自衛隊広報イベントには、多くの人が来るようになっている。「軍事オタク」のみならず、普通の家族が、USJやディズニーランドに来るように来ている。かれらが自分でそのようなイベントに来るということ、つまり、自衛隊広報イベントを消費するかれらの主体性、「普通性」について、ここでみなさんと考えたい。

いずれにせよ、その国家の宣伝に乗って「主体的」に戦争を消費した国民の存在をどう捉えるかが、戦争を研究する者の共通の課題といえる。『写真週報』を熱心に読み、嬉々として博覧会に行った人々は、自衛隊イベントを無邪気に楽しむ大勢の人々と何ら変わることはないからだ。


<討論のまとめ>

その後、森氏からのコメントに対する返答からそのまま全体の討論へと移行し、報告者とディスカッサントによって展開された問いを広げ、全体で共有することを目指した。森氏からの返答も含めて、討論において議論された内容を、以下の5点にまとめておく。

1点目。須藤氏は主に文化の生産過程、森氏は流通と消費の過程に焦点を当てているが、これは文化の政治学が展開される「諸回路circuits」の問題である。この回路は多数であり、いずれにおいても文化的なもの、政治的なもの、経済的なものとの結びつきは形成されうる。文化の政治学はこの複数の局面を横断する。

2点目は、大文字の政治と小文字の政治との関係性である。山﨑氏によって言及された黒人女性の写る隊員募集ポスターは、女性を軍隊に包摂するという実践的目的を有するが、自衛官募集ポスターの女性自衛官の萌えキャラ(また女性アイドルなど)は、特段女性を隊員としてターゲットにしているわけでもない。この場合、軍事的なるものは、萌えキャラの消費という回路を通じて消費されているのかもしれない。そこから、この消費者という主体性と、政治共同体の積極的な担い手としての主体性との間の乖離、ないしは後者の社会的減退が指摘された。

この乖離という点をひとまず言葉にする上で鍵となるのは、森氏から提出された「言説の地政学化」という視座だろうか。これが3点目である。批判地政学によってなされた「地政学の言説化」とは異なり、「言説の地政学化」は、萌えキャラのような一般的な表象が、特定の権力幾何学のなかで、結果として(・・・・・)地政学的なものとして浮上していく回路を問う。だからこそ、流通や消費の局面において、政治的なるものを問う必要が生じるのである。

そもそも(この場合なら)萌えキャラの視覚性、そしてそれを可能とする表現法やテクノロジーは、それとして定まった意味を有するわけでは些かもない。萌えキャラは、偶発性や行為遂行性のただなかで、軍事的なものと節合articulationされうるし、他の様々な要素とも節合されうる。こうした視覚性を支える表現法やテクノロジーは、消費の回路を通して身体や情動をその内側へと捕獲し、それらへの働きかけを強めることで、森氏が言及する美学の政治化や関係性の政治との深いつながりを有するようになっている。これが4点目である。

5点目は、主体化をめぐる問いである。このような消費の回路を通して構成されているのは、軍事的なもののみならず(あるいは軍事的なものを介して)、日本人としての規範であり、その主体化過程にほかならない。特にナショナリストではなくとも、娯楽として、『永遠の0』を観て感動する人たち、家族連れで零戦を見て喜んでいる人たち、神社で桜の花見を楽しむ人たち。強制ではなく、消費という回路において確保されるように感じられる自由を通して、「日本人」を演じる仕組みが、美的なものとして形成されている。しかもそれは、家族などの場、日常生活のただなかにおいて起こる。この美的なものは、様々なやり方で、空間的なもの、政治的なものの構成を規定している。

こうした主体化を導く人や事物、視覚性の分配・配置、いわば既存の権力のエコノミーをいかに外しうるのだろうか。この契機こそが、別種の主体化、あるいは脱主体化としての出来事であり、ランシエールの言う政治であると言えよう。こうした政治を可能とする感性が共有されることではじめて、既存のエコノミーを外しうる過程を言葉にすることができるのではないか。ただしこの点については、なおも多くの課題を残したままである。

最後に、全体討論の内容を、より大きな枠組みで解釈するなら、それは資本による社会の実質的包摂の局面における文化の政治学の位置を明確にしようとする作業であったとも言える。日常生活はもちろん、軍事的なもの、政治的なもの、文化的なもの、そして社会一般が、蓄積と価値増殖の内部へと、種々の緊張と分裂をはらみながらも包摂されゆく過程において、文化の政治学は、おのれの政治性を手放すことなく、主体化の過程、そして政治的なるものをたぐりよせていかなくてはならない

(参加者:20名 司会・記録:北川眞也)