政治地理研究部会 第18回、地理思想研究部会 第122回合同研究会報告

なぜ「原爆スラム」は「平和都市」を構成しえなかったのか―広島の戦後都市復興における相生通りに着目して

開催日 2016年7月9日(土)
会場 京都私学会館
〒600-8424 京都市下京区室町通高辻上る山王町561

<講演>
なぜ「原爆スラム」は「平和都市」を構成しえなかったのか―広島の戦後都市復興における相生通りに着目して

<報告者>
仙波希望(東京外国語大・院)

本報告では,「なぜ「原爆スラム」は「平和都市」を構成しえなかったのか――広島の戦後都市復興における相生通りに着目して」という題目のもと,「平和都市」広島の戦後復興の過程で生まれ,消滅した基町相生通り,別名「原爆スラム」にかんして発表を行った。基町相生通りとは,旧太田川沿いに伸長し,最大で900戸程度のバラック建築が密集した不法住居群のことを指す。1946年頃の開拓団「あおぞらクラブ」による「入植」に端を発するこの路地は,49年には64戸ほどのバラック住居が築かれ,戦後復興の過程に比例してその規模を拡大していった。「基町河岸の不良住宅地は,俗称〈原爆スラム〉と呼ばれ,その解決なくして広島市の戦災復興は終らない」といった当時の広島市長の言葉に明らかなように,1960年代中頃突如として相生通りは「原爆スラム」として争点化される。本報告の問いはここに置かれる。すなわち,なぜ,相生通りは「原爆スラム」と呼ばれ,「平和都市」広島からの消滅をもとめられたのだろうか。「原爆スラム」と「名づけ」られながらも,確かに戦後広島の中心景観を構成した相生通りの実態と,理念型としての「平和都市」の臨界点に姿を消したプロセスを詳らかにすることを本報告は目的とした。

さて,相生通り,「原爆スラム」については,「たとえば,戦後広島には,「原爆スラム」と呼ばれる[…]不法占拠地があり」,太田洋子の小説(『夕凪の街と人と』)などが「スラムの「社会的困難」を告発した」,といった文脈で語られることが通例である(黒川伊織「「帝国の追放されし者たち」との未来」, 三宅芳夫・菊池恵介編『近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?』作品社, 2014, p356)。事実,1960年代当時の雑誌などでも同じ論調で語るものが多いが,実際に当時の相生通りを調査した人々の声は,こうした「社会的困難」のみには帰着できない相生通りの顔を想起させるものも残っている。代表的なものでは,「しかし,この風景はなんとなつかしいぼくたちの生い育った原風景ではないか。こんなものをスラムというなら,そこら中スラムだ」といった言説である(石井和紘「ルポルタージュ 基町旋回」『新建築』48(5), p206)。

そもそも当時の相生通りに「スラム」としての「画一的な暮らし」は存在しなかった。1970年の矢野らの間取り調査が明らかにしたのは,個々の住居は「敷地割から解放された〈いえ〉」であって,そもそも当地区は「ひとつとして同じ〈いえ〉」が存在しなかったという事実である。〈いえ〉と〈いえ〉をつなぐ路地は,「〈誰のものでもあり,自分のものでもある〉といった居住者の生活と非常に直接的な外部空間=共有空間の実体」を体現し,「個の形態的な占拠」ではない「群としての実体的な占拠(日常的生活環境の共有化)」が垣間見える(雑誌『都市住宅』1973年6月号)。こうした「環境」下で,また「原爆スラム」と名指された当時においても,相生通りの51.2%の住民が「永住」を希望し,29.4%の住民が長期的な居住を求めていたのである(大藪寿一「原爆スラムの実態 上」『ソシオロジ』14(3), 1968, p45)。都市社会学者のハーバード・ガンズの言葉を借りれば,確かにこの路地は「人びとが低所得,低学歴,その他の関連する困難と闘っている荒廃した地域であった。そうであっても,そこは概して住みやすい場所だったのである」(ハーバート・ガンズ『都市の村人たち イタリア系アメリカ人の階級文化と都市再開発』ハーベスト社, 2006, xiv)。

相生通りが「原爆スラム」という呼称のもと消滅を迫られるのは1960年代中頃のことである。50年代後半以降の復興意識の高まり,1963年の原爆違憲判決を背に,広島市議会議長も務めた任都栗司は,「とにかく,広島で一番ひどい場所に『原爆スラム』と冠詞をつけ,住宅対策に役立てようと考えた」(『中国新聞』1965年7月28日夕刊』)。当初,市全体に広がる河岸の不法建物全体を示す言葉として用いられた「原爆スラム」という「冠詞」は,1966年初頭からの河岸緑地事業にともなう立退の進展及び中国新聞紙上での「連載 原爆スラム」を経て,空間的に,そしてイメージとして,相生通り「のみ」を示す言葉として定式化される。直後,“新しい街”と呼ばれた基町高層アパートの建設をもって,相生通りは「原爆スラム」として消滅に至るのである。

以上のように,本報告は「小規模性の複合的な焦点」を内にはらんだ相生通りの様相を確認した上で,「平和都市」の名のもとで消滅されるに至るプロセスを明らかにした。同時代の都市論を席巻したジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』(1961年)や本報告内でも言及したガンズの『都市の村人たち』(1962年)など,本研究が明らかにした点と符合する成果は,まさに同時期に世界中で残されている。本報告とそれにともなう議論を経て,単なる地域史的一事例に留まらない理論的側面へと接合していくことこそが本研究の今後の課題としてあげられる。


<コメント>
本岡拓哉(立正大)

本報告は戦後広島の基町相生通りという地域の実態にアプローチする際,そこに生きる個々人の声や姿を基軸にすることを意図している。こうした視座は当該地の「スラム」との位置付けが表層的かつ一面的なものであることを明示し,既存の捉え方にゆらぎを与えるものであろう。地域をそこに生きる個人から読み解く姿勢によって,オルタナティブな地理学的想像力が生まれうることを示してくれた。

さらに本報告は,だれがどこからどのようにこの地域をまなざしているかを意識することの意義にも気付かせてくれるものであった。「原爆スラム」として名付けられる過程において,「スラム=不良住宅地区」といった特定の地域表象が社会的にクローズアップされるとともに,行政当局が広島市を俯瞰する立場から市内に散在していた他の「原爆スラム」を消滅させ,基町相生通りのみを住宅政策や地区改良の対象として焦点化していったとの指摘は,当該地をめぐる「空間の政治」が展開していたことを明示するものである。こうした「空間の政治」は果たして「平和都市」広島にとどまらず,現代にまで通じる「戦後」社会全般に展開するものなのか,それは今後の都市研究や都市史の重要な課題の一つになるにちがいない。


<司会所見>
地理思想研究部会と政治地理研究部会との合同で開催した本企画は,「「平和都市」と「原爆スラム」」というテーマを掲げ,東京外国語大学(社会学)の仙波希望氏による研究報告と,本岡拓哉氏(地理学)によるコメントを軸とした。

「平和都市」「原爆スラム」等のキーワードにカッコを付したことが示すように,本企画の狙いは,「平和」をめぐる表象や「原爆」の記憶を根底的に問いつつ,都市の系譜を掘り下げるための視点を探ることにあった。仙波氏による研究報告では,相生通りが「原爆スラム」として括られていく過程のなかで,「平和都市」に相応しくない場所として「退出」あるいは「消滅」させられていった事実が,豊富な資料をもとに論じられた。地道なフィールドワーク研究にもとづく仙波氏の知見は,上記の課題を深めるうえで,きわめて重要なものであった。

つづく本岡氏によるコメントでは,自身のフィールドワーク研究にもとづいて「スラム」と呼ばれる空間の重層的な実態が示されるとともに,その表象が有する政治性ないし構築性が,いっそう具体的に明示された。本岡氏によるコメントを受け、フロアからは活発な質疑応答が繰り広げられた。具体的には,「平和」という言葉が新都市建設へと重ねあわされていく文脈や,「原爆」と「スラム」という語彙が接続され「原爆スラム」という呼称が生み出された背景,当時の住宅供給とりわけ郊外化との関係性などの点をめぐり,議論が交わされた。

リチャード・セネットやハーバート・ガンズらの言葉を引きながら仙波氏が指摘したとおり,「スラム」と称される空間を対象とする調査研究は,「スラム・ロマン主義」へと陥りかねない危険性を常に孕んでいる。それゆえにこそ,本岡氏が的確に指摘したように,「スラム」を記述する研究者の立ち位置が問われなければならない。つまり、「誰にとって」「なぜ」記述するのかが,絶えず精査されなければならない。「平和」という語彙があまりにたやすく用いられ、軍事的動員の論理にまで流用されつつある近年の状況において,そのことはいっそう重要な課題としてある。社会学/地理学の垣根,地理思想/政治地理学の垣根をこえた本企画は,そのような都市研究の課題と可能性を開示するものであったといえる。

(参加者:33名 司会・記録:原口剛)