中東地域を再考する―領域国民国家の限界はいかに露呈するか
開催日 | 2014年1月25日(土)14:00-17:00 |
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会場 | 同志社大学烏丸キャンパス志高館 SK地下11教室 京都府京都市上京区烏丸通上立売上ル http://www.doshisha.ac.jp/information/campus/access/karasuma.html |
<発表>
中東地域を再考する―領域国民国家の限界はいかに露呈するか
<発表者>
内藤正典(同志社大学)
中東と呼ばれる地域を理解するためには、まずその歴史的変遷の経緯を踏まえる必要がある。
19世紀から20世紀前半にかけて、オスマン帝国が衰退を続ける過程で、今日の中東地域は次第に列強の支配を受けるようになった。1916年のサイクス・ピコ協定によって、それまでオスマン帝国領であった地域はフランスとイギリスが占領下に置くことになり、この際に地図上に国境線が策定された。シリアとメソポタミア南部を獲得したイギリスは、1918年のバルフォア宣言においてユダヤ人の国家をパレスチナに建設することへの支持を表明する。バルフォア宣言当時、パレスチナに住むユダヤ人は全体の2.5%程度に過ぎなかったが、その後第二次世界大戦を経てユダヤ人の入植は急激に増加した。国連によるパレスチナ分割決議が決裂した後に建国したイスラエルは、第一次中東戦争への勝利をきっかけに圧倒的な勢力を築きあげ、アラブ諸国と対立しながらもアメリカ合衆国から莫大な支援を受けることで現在もパレスチナの支配を強め現在に至っている。
このような過程で、「中東」と呼ばれる地域が誕生した。地理教育では「西アジア」「北アフリカ」といった呼称も使用されていたが、「西アジア」では地域の歴史性と政治性の問題点が欠落し、呼称として不適切であった。日本からみて「中」でも「東」でもないこの地域は、英語のMiddle Eastという語のみならず、アラビア語やトルコ語でも皆「中東」と表現されており、それが日本語でも転化された形で現在まで普及している。ただし、その背景を理解するには、第一次大戦およびそれ以降の出来事がこの地域に反映していることを踏まえなくてはならないのである。
近代化に伴って台頭した民族主義は、20世紀以降高まりをみせ、第二次大戦後に世界各地で植民地が独立した際にも多大な影響を及ぼした。しかしながら、20世紀後半に国民国家を前提とする地域における諸問題の解決策として民族主義に焦点が当てられたのは、中東において大きな禍根をもたらした。その一つが領域に関する問題である。国民国家には独自の領域があるが、中東の国家の多くはいずれも西欧諸国が第一次大戦後に当該地域において策定した国境を基盤としており、その領域性こそが植民地主義の中で策定された国境に拘束されてきたのである。過度に民族へ焦点が当てられた例として「アラブの連帯」(汎アラブ主義)があるが、中東において宗教を抜きにして政治と民族を論じることに限界が生じ、これは1970年代に入って崩壊した。領域国民国家の形成に成功した稀有な例としてトルコが挙げられるが、同国は厳格な世俗主義を採用する一方で、アルメニア虐殺問題を頑なに否認し、少数民族のクルドの存在を否定するなど、マイノリティ問題の矛盾を包摂したまま国家を維持していくことになる。
1980年代後半に入ると、中東の様々な領域国民国家において、イスラームの法的規範性を強く意識した宗教復興(イスラーム主義)の流れが顕著になる。法の規範としてイスラームが支配することにより、社会および経済の公正を実現することを目指すようになる。西洋の法概念とは異なり、唯一の神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に神に委ねるイスラームには国境概念がないため、イスラーム法を規範とすることは法が国家を超越することを意味する。国民国家の枠組みを逸脱するこの動きを国家の支配者たちは極度に恐れ、暴力的による弾圧を試みたが、パレスチナにおけるハマス、シリアにおけるムスリム同胞団、エジプトにおけるジハード団などが次々と登場した。このような動きを恐れた西欧世界は、冷戦の終結を迎え共産主義亡き後の世界において最大の脅威はイスラームであると喧伝するようになった。
2001年9月1日に発生した同時多発テロは、欧米諸国によるイスラーム排斥主義を増幅させていった。2000年代は、新たなレイシズムの拡大を止められなかった10年ともいえよう。西欧諸国では民族や人種差別の禁止が制度化されたものの、宗教差別は禁じされなかった。例えば、再イスラーム化していくムスリム移民に苛立ちを強めたフランスでは、公共空間でのスカーフ着用を禁止するなどして、しばしば衝突してきた。逆に、民族主義・世俗主義を徹底させてきたトルコでは、イスラーム主義の公正・発展党を率いるエルドラン政権が誕生し、経済発展に伴い新興国の一つとして台頭したが、アメリカ合衆国の主導で侵攻されたアフガニスタンとイラクは体制変更後も政権が安定せず、国家は崩壊の危機に瀕するようになった。
チュニジアでの暴動をきっかけにして2010年から発生した「アラブの春」以降は、イスラーム主義者であるムスリムと世俗化したムスリムが衝突し始め、混迷に拍車をかけている。民主化運動が高揚したエジプトではムバラクによる長期政権が追放され、2012年に初めて民選で大統領が選ばれたが、1年もたたぬうちにクーデターによって政権が倒された。民主化を率いたムスリム同胞団は非合法化し、軍事政権らによってテロ組織と認定された。エジプトと同様に、アサド一家が同じく長期政権を握ってきたシリアでは、アサド政権から離脱した世俗主義の自由シリア軍とイスラーム主義勢力が入り乱れて衝突しており、現状の内戦には一切の打開策がない。
西欧諸国の植民化によって策定された国境を基とした国民国家が形成された中東では、本質的にムスリムを束ねていくイスラーム主義が台頭した現在、将来的にイスラームの法的規範に基づいて領域国民国家を再編せざるをえないであろう。国民国家の基盤である「国民」概念の不自由さを超越しうるためは、イスラーム的統治による寛容が必要となる。しかし、世俗的な「力」を有する政権は、暴力を行使することで「領域」「国民」「国家」の枠組みを死守しようとするため、衝突が続いてしまう。これらを打破する一つの策として、オスマン帝国時代に実施されていたカリフ制による広域国家の樹立が挙げられる。しかし、これは近代化論者には決して容認されない制度であるため、この方向へ動き始めるには相当な時間を要するであろう。しかし、現代世界では領域国民国家に様々な歪みと限界をもたらしているのも事実である。もし国境線に束縛されない空間的領域が再び形成されるならば、歴史的にムスリムによって都市と都市、都市と農村の緩やかなつながりが構成されてきた中東は、ウェブのようなネットワークが再び活性化する地域となるだろう。
<質疑応答>
- Q1.(三重大学 北川眞也)911後の現代世界では、西洋諸国の視点から「目に見えない脅威」としてテロが語られ、その文脈でアル・カイーダをはじめとしたイスラーム組織が取り上げられがちであるが、イスラームの文脈では主権国家を乗り越えるうえでどのような展望が論じられているのか。
A:中東地域の国境は概ね第二次世界大戦以降に確定しているが、オスマン帝国崩壊後、列強の植民地支配を経て新しく誕生した国家の多くは、権力者が世俗的な立場に立脚して軍や政治基盤を掌握した。しかしながら、新興国で権力を握った者の多くは富を集中させ私腹を肥やしていったことで、国民の大半を占めるムスリムはこれに反発し、反政府運動が発生するようになった。元々は領域国民国家内における権力者の不公正を糺す目的で始まった反政府運動であるが、反対勢力は政権側から徹底的な弾圧を受ける一方で、権力者を支援するアメリカ合衆国やイスラエルが不公正の根源につながっていることを認識した。そのような反対勢力が地下組織化し、アメリカに対してテロを行ったというのがアル・カイーダに関してなされる説明であるが、この解釈では不十分である。そもそも、反政府運動は民族主義で留まるものではない。チェチェン共和国の独立運動派を厳しく弾圧したロシアに抵抗した兵士たちがシリアなど世界各地の内戦現場へ拡散したように、世界各地に十数億人以上存在するムスリムの多くは、国家の権力者たちの不公正に対してジハーディストと類似した思いを共有している。千年以上もの間、国家の領域に捉われずネットワークを生かして世界各地で反映したイスラーム社会とその制度は、近代化を推し進め領域国民国家を基盤とした世界秩序を目指してきた西欧諸国からみれば「目に見えない脅威」と捉えられるが、それを力でねじ伏せようとすると、必ず抵抗や対立が生じるであろう。イスラームは国境線によって領域化された国家に分断されるのではなく、信仰のもとで一つとなるのである。
- Q2.(兵庫教育大 吉水裕也)中等教育の現場で地理を教えていた者として、大変勉強になる内容であった。教科書の内容はどうしても概略的になりがちだが、地域に関するミクロな情報が非常に重要であることを再認識した。発表の中で地理教育の重要性について言及されていたが、具体的にどのような点について期待されているのだろうか、また今の地理教育に期待ができるのだろうか。
A. 高等学校で世界史が必修になって以来、現代世界の問題がどこで起きているかを理解できない、空間認識を欠く学生が増えている問題が深刻である。地図帳を開かせれば個々の場所について確認させられるものの、様々な地域や場所で起きていることの連関が理解できないと、現代世界へのリテラシーが低下する。空間的な側面から世界を教えることは地理にしかできないし、その重要性をもっと理解してもらう必要がある。中東に関して言えば、発表者は中学・高校の地理の教科書を執筆する際、担当箇所を地域の描写に留まらずロジックで執筆しているが、「現場の意向」を理由に必ず含めさせられるものが出てくる。現在の西アジアでほとんど使用されていないカナートは、その悪しき一例であろう。また、教科書に含める食文化の記述でラマダンがしばしば取り上げられるが、これは本来ムスリムが欲望を抑制する目的で実践することから「斎戒」と書くべきであり、部分的な断食の側面だけ取り上げて論じるのは不十分である。しかし、性欲の抑制に関する記述は教科書で制限されるため、正確な説明が難しくなるのが現状である。このような本質的理解を妨げる規制が改善されることを望みたい。また、豚肉の消費もコーランで禁じられているものの、食べても良い場合の例外規定がきちんと設けられている。禁忌を強調して説明するか、例外の存在を強調して説明するかで、学ぶ側の理解や考え方も大きく変化する。世界各地に関する本質的な理解と認識を養うための教育は地理にしかできないことで、これからもその重要性を発言していきたい。
- Q3.(京都大・院 網島 聖)最後に言及されていた「ネットワーク的なつながり」について教えていただきたい。1)境界を超えるノマッドのような動きがネットワークの強みだと思うが、他方で立憲主義的国家のもとでは、権力側は彼らの動きが縛りにくくなるのではないか。これは近代化と国家・憲法の枠組における課題と考えられる。2)将来的にこの動きは、イスラームの布教の空間的拡大とも合致するのだろうか。
A. 中東の国々が独立を主張する際に、立憲主義は顕著となったが、これには様々な矛盾を含んでいた。オスマン帝国末期、列強の要求でトルコは1876年にミドハト憲法を制定したが、これはスルタン(君主)が法の支配に属することを意味した。ただし、スルタンは本来イスラーム圏全体に対する世俗権力の統治者であり、それに加えて宗教上の権威としてカリフがいるということであったが、この二重構造はどうしても近代国家とは馴染みようがなかった。結果として、トルコについていえば、トルコは立憲国家が成立し、スルタンとカリフが共存する制度は廃止された。しかしながら、この十数年でそれが崩れてきている。なぜかというと、ムスリムにとってはイスラーム法による諸制度の支配が理にかなっているからである。二度の大戦以降は近代化の歩みとともに立憲国家を制定していったものの、イスラームの側からみると、本来立憲は実現不可能なことである。なぜなら、立憲とは本来神が有する絶対的な主権を人間が持つということを意味するからであり、立憲主義とイスラーム主義は本質的には対立するものである。とはいえ、中東では多くの国家が妥協的にそれらを共存させているのが現状である。例えば、エジプトは軍事政権が憲法改正に動いているが、その中で宗教政党の禁止を明記しようとしている。しかし、30年にわたるムバラク独裁政権では、その当時からあった憲法の第一条で「エジプト憲法の法の源はシャリーア(イスラーム法)である」と書いており、これをみても矛盾が明らかである。オスマン帝国崩壊とともに国境線が画定されてきた中で中東の国家にとって、過去100年の歴史はこの矛盾を抱えながら妥協的に続けてきた、といえる。
布教の拡大について、アジアで広がっていった流れをみると、イスラームの拡大は商業活動が中心となる。7世紀のイスラーム教誕生以降、10-12世紀にアジアへ普及するが、これはイスラームに基づいた商売の方式がマレー人に採用されたことで普及が進んだといえる。そこにはイスラームの方式(法の体系)がもつ実際的な利便性が大きかったといえよう。ただし、これは現代でいう「グローバル・スタンダード」とは異なるものである。その一例として、弱者救済の倫理を含んでいること、そして異教徒から徴税するかわりに対象を庇護する義務を有することが挙げられる。西欧の歴史ではイスラーム教徒が異教徒へ「剣かコーランか」(改宗を拒否するか改宗するか)を迫ったとしばしば表現されるが、これは大きな間違いである。なぜなら、イスラーム社会の中では徴税制度が存在しないため、帝国の空間的拡大は徴税の機会であるから、改宗を迫るわけがないのである。ロジカルに考えればわかることばかりだが、西欧によるイスラームと暴力を結び付けた言説が何十年も繰り返されてきたことで、解けない誤解が大きく膨らんでいったことが一番大きな問題である。
- Q4.(立命館大 麻生 将)近年、宗教の差異が暴力や対立を生むという趣旨の言説が政権やメディアから発されがちであるが、私はこれまで担当した授業において、決してそうではないこと、むしろ異なる宗教が共存することを強調しながら教えてきた。本日の報告と関連して、私のこれまでの視点が正しかったか、補足すべきことがあれば教えていただきたい。
A. 世界史の流れでみると、一神教ではユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の順に成立したが、イスラーム教は言わば先輩にあたるユダヤ教とキリスト教から多くを学んできた。ユダヤ教もキリスト教も神から啓示(律法と福音)が下されたが、イエスの一生を詳述した旧約聖書とは異なり、イスラーム教のコーランは神の言葉をモハメッドが記したものとして最も新しい位置づけである。コーランは先にできた二つの宗教の思想を踏まえ、両者を否定するのではなく長所を汲み入れながら絶対的な神の存在を基として編まれており、いわば本家に対する分家という見方もできるであろう。しかし、より古くから成立したユダヤ教とキリスト教の側からすると、後から誕生したイスラーム教は敵意を持って誕生したとみなされており、ここに大きな誤解が存在する。翻って、現代世界ではイスラーム教がキリスト教やユダヤ教と対立すると言われがちだが、対立の根源は宗教ではなく、世俗の問題にある。イスラーム教徒が敵とみなすのは、近代化を経て世俗化した国家である。例えば、イスラエルはユダヤ教の国家であるが、イスラエルの建国・誕生を求めたのは中東地域にいたユダヤ教徒ではなく、アメリカなどの西欧諸国に移住した改革派のユダヤ教徒と宗教色の薄い労働シオニストたちが中心であった。これを踏まえると、ユダヤ教徒も一つにまとまったものではなく、イスラエル建国が世界の秩序崩壊やイスラーム教との対立を生みだした根源であると考える保守的なユダヤ教徒も多数いる。また、イスラーム教とキリスト教の関係に目を向けると、近年のローマ教皇は先代を除きいずれもイスラームとの対話の必要性を主張しており、古くから両者が敵対していたわけではない。キリスト教に由来する個人名は、イスラーム圏でも頻繁につけられており、イスラーム教がキリスト教を敵視する理由はない。
<司会所見>
報告と質疑応答を含めて3時間以上にわたり続いたこの研究会では、領域国民国家の形成がイスラームを基盤とする世界の諸地域(アルメニアやアフガニスタンの例)でどのような問題を引き起こすに至ったかに加え、シリア内戦をめぐる歴史的経緯、ヨーロッパにおける再イスラーム化の背景、東アジアと中東における民族主義の差異、カリフ制再興の可能性などについてなど、様々な議論が行われた。これらはどれも領域を伴う国民国家という制度がイスラームの中で様々な矛盾を引き起こしていることに行きつく問題であり、その理解には地理的および歴史的背景への理解が求められることが強調された。内藤氏は1980年代にシリアへ留学していただけでなく、これまでにヨーロッパ諸国やトルコにおいて現地調査を何十年も続けており、それらの経験を踏まえた報告は極めて示唆に富むものであった。
本報告がなされたのは2014年1月下旬である。その後、同年6月29日にはカリフ制イスラーム国家の樹立を宣言した「イスラーム国」が誕生した。この組織は世界各国からの承認を得ていないものの、現在のイラクとシリアをまたがる地域を国の領域とし、イスラーム主義に基づいた国家基盤を着々と築きあげている。イラクにおいてISIS(イラク・シリア・イスラーム国家)が伸長しているのも、ジハーディストが中心となりイスラーム主義を基盤とした社会秩序を目指していることの表れであり、内藤氏が報告で触れていたカリフ制の再興は、図らずも数か月後に実現するに至ったことになる。領域を前提とした国民国家の概念を無意識のうちに受け入れている多くの人々には一見理解しがたいかもしれない動きであるが、その地域・社会的な背景についてきちんと理解していく必要があることを、これまでにイスラーム地域に関する一般書を何冊も出版してきた内藤氏の報告を通して痛感させられる研究会であった。
なお、記録者の不手際で本研究会の報告が大幅に遅れたことをお詫び申し上げる。
(出席者 28名、司会&記録:二村太郎)